2013年1月11日金曜日
体罰とコトバの暴力
世の中は体罰に厳しい。それはそうだ、
しかし、コトバの暴力にはどんどん世の中が寛容になっていく。そればかりか、そういうコトバがむしろもてはやされたりする。
体罰もコトバの暴力も、問題はその非対称性にある。
殴り返すことができない。
言い返すことができない。
それは正しさとは別のところに問題があるということでもある。
だから、殴り返せばいいのだ。言い返せばいいのだ。
問題は、殴り返し方、言い返し方。
それはとても難しい。
私もどうすればいいのかわからない。
しかし、この圧倒的な非対称性に立ち向かうことで、ひょっとしたら問題の一部は解決できるかもしれない。
殴り返し方、言い返し方、それについてよく考えてみたい。
決して肉体にふれない殴り返し方、あるいは肉体にふれるコトバの返し方。
こんちくしょうでやっつけろ。
2013年1月8日火曜日
後輩に説教される
後輩から説教された。
「小規模RCTには要注意」という私の発言にいろいろ異論があるようだ。
「large RCT結果とmeta-analysisの結果は10%から20%くらいは(偶然)違う。論文の妥当性は研究デザインの種類によって決まるのではなく、研究の目的に対して適合した方法か否かだけです。」
ということなんだが、おっしゃることはまあよくわかる。重要な指摘だ。特に「論文の妥当性は研究デザインの種類によって決まるのではなく」というところには何の異論もない。後半部分も「論文の妥当性は研究デザインの種類によって決まるのではなく、研究の目的に対して適合した方法か否かが重要」とでも書いてくれれば何の異論もない。実際、私自身が書いた本にもその通りのことが書いてある。
ただ、「研究の目的に対して適合した方法か否かだけ」とかかれるとそれに同意するのはちょっと難しい。
一部ではそういう考え方は重要だ。そうでなければ研究課題に対して、方法が決まらない。しかし、それは研究者や社会の文脈によって適合がはかられるだけで、「それだけ」というのは医療のような非厳密科学にはそぐわない。
あるいは厳密科学だって、偶然が重要な発見を運んでくることはよくあるわけで、そんな場合は、研究目的に適合したと思う方法でやっている限り、そういう偶然のチャンスを逃してしまうだろう。
で今回の結論は何かというと、私は説教されるのが一番嫌いなのだ。
他人に説教しないように気をつけたい。
だからこれは説教ではないと一応言い訳しておく。
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