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2019年7月13日土曜日

がん検診はどれほど有効か

今行われているがん検診はどれほど有効なのだろうか。がん検診をすればがんで死ぬ人はいないくなり、がん検診をしない人はがんになるとみんな死んでしまうのだろうか。

例えば乳がんで見てみよう。
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/?term=23737396の乳がん検診についてのランダム化比較試験のメタ分析である。

13年の追跡の結果、がん検診をしない群の乳がん死亡が0.43%、がん検診群の乳がん死亡率が0.36%である。四捨五入すれば、どちらも0.4%と差がわからなくなる。
もちろんこれは統計学的に有意に乳がん死亡を減らしたという結果ではあるが、実際の数字を見てみると、こういう効果なのである。

がん検診による害の問題がいかに重要か、わかるのではないだろうか。
診断閾値で対処するというようなことがいかに荒唐無稽なことであるか、一目瞭然である。

予想されるがん検診の効果は、直感的な効果よりはるかに小さく、害の危険ははるかに大きい。まずはこういう一般論を押さえたうえで、がん検診の議論はなされなければいけない。

この件に関してはひとまずこれで終わりたい。

福島の甲状腺がん検診が直ちに中止され、個別の相談へ引き継がれることを切に望む。


理解しがたい思考

がん検診の害について、いろいろ吟味してきた。害があるということについての異論はないようだ。少なくとも教科書に書いてあるレベルでは理解されている。ただその害ががんの性質やがんになった人側の問題だけでなく、エコロジカルに決まっているということを理解するのは難しいようだ。その辺は十分理解できる。

がん検診を受けるか受けないか迷うような患者に対し、がん検診の害をエコロジカルなレベルで日々説明している医者にはほとんどであったことがないし、私自身もそういう説明をするのはごくごく限られたときだ。個別の臨床の現場でも理解してもらうのがなかなかむつかしい。

しかしすぐわかりそうな簡単と思うようなことで壁にぶち当たる。

がん検診をするとがんが見つかる。当たり前のことだ。進行した状態で見つかることもある。それも当然だ。しかし、検診を進めるべきだという人の中に、こんな進行したがんが見つかるんですよ、こんながんの死亡例があるんですよ。そういう事実を知ってますか。というように言ってくる人がたくさんいる。これはなぞだ。彼らは何が言いたいのだろうか。

進行したがんが見つかるから検診が必要、そんなナイーブな論理でがん検診を進めたほうがいいという人は、さすがにいないのではないか。害の問題も認識できているし、と思うのだが、どうもそうではない。

例えば乳がん検診をすると、乳がんが見つかるし、前立腺がん検診をすると、前立腺がんが見つかる。その中に進行したものも含まれる。そのがんによって死に至る人もいる。しかし、それは何一つがん検診を正当化しない。それは単に検診をするとがんが見るかるということだし、がんという限り、進行するし、死に至らしめる。たったそれだけのことがどうも理解されていない。不思議なことだが、そういう状況になっている。

こんな進行したがんが見つかるのだから、がん死に結び付く進行の早いがんが報告されているのだから、というのはがんを見つけるということと同じことで、だから検診が必要ということには決してならない。

それともう一つ。

がんを検診で見つけないと助けることができないということはない。検診以外で見つけてもいくらでも助けることができる。当たり前のことだが。しかし、検診を進めるべきという人の中には、どうもそう思っていない節がある。

検診を勧めようとしている人たちの一部は、検診しないと助けられないというふうに思っている人がいるようだ。不思議だ。そこにあるのはどういう理屈なのか。

で、私はこれは理屈ではなく、早期発見早期治療病にかかっていると診断するのだが、この病気の特徴は病識がないことである。
この病気をどう認識させるか、それが当面の宿題である。

過剰診断が起きているところ

これは子供を対象にした問題だ、というところが大きな壁になっている。

過剰診断も高齢者や別の病気を持っているところで起きやすいというところにフォーカスして、子供には当てはまらないと。

いつ治療を始めようが結果が変わらないと過剰診断になってしまうというようなところに関心が向かない。しかし、そうした過剰診断は子供にとってこそ重要だ。10歳で治療しても20歳で治療しても同様なら、20歳のほうがいいでしょう、というような場合は、高齢者より差が明らかだ。がん患者として日々生活する10代とそうでない20代の差は70代と80代の差よりはるかにはっきりしている。子供であるからこそ過剰診断の害が大きいのである。

前回のポイントにつなげて言えば、過剰診断の害もがんの性質だけではなくてエコロジカルにしか決まらない。

しかし今回書こうとしているのはそういうことではない。

何より認識の違いは、原発事故があったということ自体が、とてつもない過剰診断を生む根本的な原因で、それは被曝による甲状腺がんの危険よりはるかに大きいことが予想されると考えるか、その部分をあまり考えないかということにある。
前者で考えれば、とにかく無理に甲状腺がんを見つけないことこそ重要。見つけたうえで診断閾値をどうするかなんてことは全く問題にならないと考える。ましてやエコーのような精密な機械で見た時に、どこに診断閾値を置くかというような問題は、原発事故後に甲状腺がんを心配するために生じる過剰診断という今まで経験したことがないような大きな過剰診断の危機を心配するものにとって、全くお話にならないということになる。

そこでとにかく検診をして甲状腺がんを見逃さないという極端と、何もしないほうがいいという極端の間で、現状は過剰診断をできるだけ避けるような方法で検診を継続するというところで現実が進んでいる。

既に福島では、甲状腺がんを心配しない子供を持つ親のほうが少なくなってしまって、過剰診断がこの時点ですでに猛烈に増えている。

今の状況は、放っておいても日々過剰診断が続々と出てしまう。被曝量が少ない地域で見つかるものはいかなる診断閾値を採用しても大部分は過剰診断だ。都内でも甲状腺がん検診が行われ、それも同様に過剰診断ばかりしている可能性が高い。

原発事故こそが過剰診断の最大の温床である。過剰診断は、検診をしなくてももうすでに起きてしまっていて、検診を行うかどうかすら問題ではない。検診を行わなくても起こる過剰診断にも配慮が必要なのである。

そして、子供が対象であるからこそ、その過剰診断こそ最も問題にしなくてはいけないと思っているのだ。

だから、重要なことは個別の相談であって、検診ではない。


2019年7月12日金曜日

過剰診断の「進行しない」性質について

がんの過剰診断は理解されにくい。それはある面仕方がない。
「進行しない」がんというと、「進行しない」という性質はがんに属するものだとまず思うからだ。しかしこの「進行しない」という性質は、がんだけに属するものではない。
どういうことか。

例えば、生物学的にまったく同じ性質を持つ二つのがんが、全く健康な50歳にできた場合と、慢性の病気を持った同い年の人にできた場合を考えてみる。がんの生物学的な振る舞いが同じとしても、前者は70歳でがんで死に、後者は50歳で元の病気で死んだとしよう。前者は過剰診断でなく、後者は過剰診断になる。生物学的には全く同じがんが、である。

もう一つ例を挙げよう。
同様に生物学的に全く同じがんが、全く健康な50歳にできた場合と、現在の全く健康な50歳にできた場合を比較してみる。前者は55歳の時に無症状のまま検診で発見し、即座に治療をして、80歳で別の病気で亡くなった。後者は70歳の時に体調不良で受診した際に受診してがんの診断を受け、治療をして、80歳で別の病気で亡くなった。この例は遅く見つかったのに寿命が同じなんておかしい、と思う人がいるかもしれない。しかし、その考えこそが必ずしも正しいとは限らない。

一つはこのがんが放置した時でもがんの発生から死に至るまで40年かかるがんだった場合である。この場合は前者後者とも、過剰診断かもしれない。これはがんの進行が極めて遅いというがん側の生物学的な性質によって、両者が過剰診断になっている。

もう一つは、放っておくとどちらもがんで死んでしまう進行の早いがんである。しかし、前者の人が治療を受けてから、後者の人が治療を受けるまでに治療が大幅に進歩し、15年後でも治療で治癒してしまう時代になると、前者が過剰診断になっている。ここでも、生物学的には同じがんが、前者では過剰診断、後者では過剰診断になっていない。

ここではもう一つの場合があるが、それが論座で紹介した、遅く見つかったほうがいい面があるという例である。これは治療が進歩していなくても、それほど早期でなく、ある程度遅く見つかっても治るなら、前者を検診で見つけると過剰診断になってしまうのである。

つまり過剰診断の「進行しない」がんの性質は、周囲との関係性によって決まっており、がんの性質だけでは決まらないということがわかる。

「進行しない」がんというと、常に「進行しない」のはがんの方だと考えがちなのだが、現実はそうではない。別の病気で死ぬ可能性もある。治療が進歩する可能性もある。多少早く見つかっても遅く見つかっても、治療が有効だとどちらも治ってしまう場合もある。「進行しない」のは周囲によって規定される場合がしばしばあるのだ。

つまり、甲状腺がんの過剰診断に関して、いくら見つかったがんの生物学的側面のみを取り上げて、その診断閾値を考えたところで、それとは全く関係ない周囲の状況によって出現する過剰診断には全く無力なのである。そうした過剰診断を考慮した場合に、いくら診断閾値をいじったところで大部分の過剰診断を減らすことはできないというのが私の予想である。

2019年7月11日木曜日

甲状腺がん検診の診断閾値を考える

論座の記事(https://webronza.asahi.com/national/articles/2019070300008.html?page=1)に発する甲状腺がん検診の是非に関する議論の中で共有できる話題が出たので、それについて少し詳しく書いてみたいと思う。

超音波による検診を行うにあたり、過剰診断を少なくするために、診断閾値をより悪性を強く疑う例にシフトさせ、スクリーニングする方法がとられた。
この戦略の基盤にあるのは、検査の感度が低いところに診断閾値を変えて、多少の見逃しが出ても過剰診断が少ない方を重視するという戦略である。
見逃しが増えることを許容し、過剰診断が減ることで、より害の少ない検診にしようということである。

そこで問題はどこで線引きをするかということである。
ここでの問題は、あくまで超音波検査の所見の中で線引きをしようと考えていることである。ここにはすでに超音波検診をしたほうがいいという前提がある。しかしそれは本当に前提として採用していいものかどうか吟味する必要がある。

超音波所見の線引きを動かすほかに、感度を下げて過剰診断を減らす戦略がないか考えてみる。
例えば、触診による検診。あるいはアンケート調査に基づく検診というのはどうか。さらにこの先に、検診をせず、過剰診断をとにかく減らすという戦略もある。

こうした複数の戦略の中で、超音波をまず選ぶ根拠は何か。超音波検査の中だけで診断閾値を考える根拠は何か。

超音波検査、触診、アンケート、検診無し、その4つの中でまず検討したほうが良いのではないか。もし検診を勧めることが妥当だとしても、最初の3つ全部でまず診断閾値を考えたほうがいいのではないか。

そう考えてみて、これまでの意見に変化があるかどうか、もう一度考えてみてほしい。