三内丸山縄文遺跡に行ってきた。棟方志功より、寺山修司よりインパクトがあったかもしれない。何千年も前に、実はもう似たような生活をしていたのだ。家を建てて、共同の公民館のようなものを建てて、そして直径1.8mにも及ぶ栗の柱を6本も使った巨大な建造物。ただ違うのは、なにが世の中の基盤かわかっているかいないか。当然わかっていないのは、現代に生きる我々の方だ。90%の子供が10歳までに死んでしまう。平均寿命は30歳。まばらに存在する大人の墓、うず高く積み重なる子供の墓。人は死ぬということ。縄文時代の人々が子供の死に際してどうだったか。死ぬ子供がふつうの子供、そういうことだったかもしれない。そうは言っても、子供を亡くした悲しみがなかったわけはない。子供の死を受け入れることと、なんとか死なないようにという努力と、その両面が存在したという点では、今と変わりはない。しかし、その軸足は圧倒的に受け入れるという方向におかざるえない。なんといっても10歳までに9割が亡くなるのだから。現代人は、なんとか死なないですむような努力を重ねてきた。医者なんかその最たるものだ。ただそれはとても立派な仕事であるし、実際大きな成功を収めてきた。しかし、そこには自ずと限界がある。どうやっても最終的に人は死ぬからだ。縄文時代に必要だったのは、生き延びるためにどうするかということだった。そうだとすると、死なないようにする、そういう方向ばかりに行きすぎた現代に必要なのは、死ぬことをどう受け入れるか、そっちの方なのではないか。そしてその方法は、たぶん縄文人がよく知っていたことだ。
すべてを外部委託して生きるようになった現代人。生き死にまでも外部委託。確かにこれじゃあ生きられない。
2009年6月27日土曜日
2009年6月24日水曜日
ディアドクター
代診の帰り、駅で電車を待つ。待っている間でポメラを打つ。午前はかつて勤務した診療所の代診、今日もたくさんの懐かしい患者さんたちとあった。別に医者としてということでは、なんと言うことはないのだけれど、昔作手に12年も住んだということでは何かあるという気がする。ディアドクターの偽医者と自分の差はどこか。あの偽医者は、俺は偽物なんよ、ということで本当のことを語ることができる。しかし私はどうかというと、偽物なんよと言うとそれがまた嘘になる。そういう訳の分からない立場。どこまでも嘘をつき続けないといけない。なんてこった。私は本物の医者だといっても、偽物と言ったとしても、どちらにしろ嘘。免許などというのはただの紙切れにすぎない。嘘を突き通すための道具だ。僻地の医者というものは、そういう在り方以外に在りようがない。そういうところで自分の琴線に触れて、映画が冷静に見られない。全然楽しめない。いつの間にか映画の話になっている。招待券が二枚届いた。もう一度見に行くかどうか。妻と娘にくれてしまうか。もう一度みればもう少し冷静にみられるかもしれない。逆かもしれないが。自分は偽物なんよ、と言いそびれたまま、免許があることをいいことに嘘をつき続けている。そういう自分の暗部に否応なく触れる。臨床を離れ、教育と研究の仕事に移りたい、というのも、偽物のまま生き延びる方便なのかもしれない。医学教育と臨床研究、本当はそんな転向ではなくて、あの偽医者のように、給食夫にでもなれればいいのだが。そういうこと書くこと事態が、欺瞞にほかならない。そうなるともう書くこと自体が無理になってくるというのに、それでも何か書き続ける。書き続けることも、また嘘をつき続けることの一つかもしれない。
大不況には本を読む
橋本治の大不況には本を読むを読む。自分のしてきたことはこういうことであったか。たくさんのものを作る。作ったものは全部売る。医療も農業よりは工業に近い。物事には限界がある。医療ですらその限界を見失っている。農業はその限界で止まっている。商工業は、限界を見失った結果、限界に達したが、また限界がないと思いたがっている。医療はこれから限界を思い知るだろう。作ったものをすべて売れる、というセイの法則は、原理ではなく、それを正しいとして進めていくのが経済だという定義なのだ。それを正しい、つまり限界はないということを正しいとしなければ破綻してしまうもの、それが経済だ。かなりわかってきたぞ。すべきことは、本を読む、である。
この治療は有効だ、そんなことを言おうと思ったら、エビデンスを示す必要がある。そういう世の中だ。それに対して、橋本治は言う。出版は不況に強いと。それに対して世の中はどう言うか。証拠を示せと。しかし橋本治はこう答える。なにが変わったのか。誰も出版は不況に強いとは言わない。しかし変わったことはそれ自体ではない。出版は不況に強いという証拠を示せ、というようになったことが変化であると。投資の対象になるかどうか、それを示せと。それが世の中の変化であると。
医療も同じだ。その医療は投資の対象になるかどうか。エビデンスを示せと。医療は人間の生活に役立つ。それでいいではないか。そこでエビデンスを示せと言うのは、医療が投資に対象になるかどうかということである。
橋本治は相変わらず冴えまくっている。
えらい世の中である。すべて投資に値するかどうか。基準はそこだ。消費資本主義とEBMの類似点、深く考える必要がある。
健康になることなど重要ではない。不健康も含め、全体としての人のあり方。病気を避けることなどできない。問題はいかに病むかだ。病み方についての学問、それが今後の医療の一つの大きな方向性だ。
この治療は有効だ、そんなことを言おうと思ったら、エビデンスを示す必要がある。そういう世の中だ。それに対して、橋本治は言う。出版は不況に強いと。それに対して世の中はどう言うか。証拠を示せと。しかし橋本治はこう答える。なにが変わったのか。誰も出版は不況に強いとは言わない。しかし変わったことはそれ自体ではない。出版は不況に強いという証拠を示せ、というようになったことが変化であると。投資の対象になるかどうか、それを示せと。それが世の中の変化であると。
医療も同じだ。その医療は投資の対象になるかどうか。エビデンスを示せと。医療は人間の生活に役立つ。それでいいではないか。そこでエビデンスを示せと言うのは、医療が投資に対象になるかどうかということである。
橋本治は相変わらず冴えまくっている。
えらい世の中である。すべて投資に値するかどうか。基準はそこだ。消費資本主義とEBMの類似点、深く考える必要がある。
健康になることなど重要ではない。不健康も含め、全体としての人のあり方。病気を避けることなどできない。問題はいかに病むかだ。病み方についての学問、それが今後の医療の一つの大きな方向性だ。
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