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2011年10月24日月曜日

脱原発への違和感 (恋する原発 その2)

原発などないに越したことはないと思う。
ただ原子爆弾たくさん持っていて、それをなくそうという運動が起きない国より、日本はよほどまともだと思う。

しかし、それでも、脱原発への違和感がある。

原発を作ったのは原発じゃない。
原発自体は悪くない。

脱原発には、たまたま生まれてきたできの悪い子に対し、不要なばかりか、害があるので殺してしまえみたいな、そういうふうに感じるところがある。

原発は電力を供給するという大きな役割を果たしている。それに比べれば、大した役割を果たさず、放射能ではないけれど、似たような害をまき散らすような人間そのものが、原発以上に不要であって、本当は脱人間が必要ではないかと。

しかし、人間を作ったのは人間ではないにもかかわらず、それを作った人のせいにせず、自分で受け止めて生きるのだから、生きててもよかろう、そう考えることはできる。

原発が恋するとしたら、放射能をまき散らしても、恋する権利はある、そう思う。

そして、その権利を支援することこそ医療の役割ではないかと思い至り、脱原発に対する違和感が、多少は理解できたような気がする。

恋する原発を読んで、ひとつ明確になったこと。

恋する原発

 
「恋する原発」、高橋源一郎著

原発を作ったのは原発ではない。当たり前だけど。
私を作ったのは私ではない。当たり前だけど。

全文引用したいところだが、著作権に触れるのでやめる。

反対に小説には直接描かれていないことばかり書いてみる。

なぜか中島みゆきの古い歌を思い出す。
「誰のせいでもない雨が」

どんなことだってどこまでも人のせいにできる。
そこで「誰のせいでもない雨が」だ。

誰のせいでもないと、自分で受け止めるということが可能かどうか。
そうやって人のせいにせず、自分で受け止めてきたものたちというのは、世の中から忌み嫌われたり、避けられたりしてきたものたちだ。

何かの賞をもらったりすると、「皆さんのおかげで」なんていう。よいことを誰かのせいにするなんてのは案外簡単。

難しいのはその反対。
原発が恋するというようなことであれば、原発は何を受け止めるのか。何を引き受けなければならないのか。

私が私から逃げずにどう生きればよいのか。
それを問い続けたい。