「コトバは時間を生み出す形式である」
この当たり前のことがずいぶん長い間わからずにいた。わかった後もこれは大きな気付きではないかと勘違いしていた。
理系の思考法は、対象の時間を止め、同一性を担保することで話を進めていく。そうでなければ話が通じない。
胃がんの診断は、採取された組織を標本にして、時間を止めた中で観察された所見でなされる。それが普通。しかし実際の胃がんは時間の経過とともに変化する。
それに対して文系の記述法は、時間の流れの中にある。
たとえば小説。小説によって書き綴られたコトバが時間を生み出すというのはあまりにも当然で、それはそれで、意味がわかりにくい。
TCAサイクルはブドウ糖が供給され続ける限りまわり続けるようなものとして記述される。一見時間があるように思えるが、これはいつまでも変化なく回り続けることを示していて変化しない、つまり時間もない、という記述の方法である。実際のTCAサイクルは、どこかでとまるのである。時間を込みにするというのはそういうことだ。
普通にコトバを使えば、時間が生み出される。
科学は時間を犠牲にして、同一性、普遍性をとった。理系の世界ではそれをむしろ当然のこととしているから、コトバが時間を生み出すということがわからない。
ただ文系のコトバで、同一性や、普遍性を議論するとなると、それ自体で1冊の本が必要になる。小説が必要だ。
学術用語と、自然言語の間にあり、時間を生み出しつつ、普遍性を持つ言葉で語ることができれば。
それは妄想だろうか。
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