マスクを付けたほうがいいのか、付けないほうがいいのかを一つの例に、情報収集し、考え、判断をして、実際の行動に結び付ける中で、主に医学情報がどのように使えるのか、あるいは使えないのかを中心に取り上げ、医学情報だけで決めることなどほとんど困難であることを示してきた。そこで医学以外のということで、言語学を取り上げてきた。今回も前回少し紹介した言語学の「記号接地問題」を軸に、いろいろ考えてみたい。
まずは「記号接地問題」を再び説明することから始めよう。「言語の本質」1)には、この問題は当初人工知能:AIの問題として。認知心理科学者スティーブン・ハルナッドが提唱したとある。ハルナッドは言う。「記号を別の記号で表現するだけでは、いつまでたってもことばの対象についての理解は得られない。ことばの意味を本当に理解するためには、まるごとの対象についての身体的な経験を持たなければならない」。
AIは体を持たない。身体に結び付かないことばは、ことばとして理解している、あるいはそのことばが表すものを知っていると言えるだろうか。そういう問いである。さらにその問いを広げていくと、AIだけでなく、身体を持つヒトもことばを知っているというためには、身体経験が必要だろうかと問う。
この問いにはとりあえず簡単に答えることができるように思う。AIはことばの意味を本当には知ってはいない。またヒトも多くの言葉を身体に接地することなく使っていることも多く、大部分の言葉を本当に理解しているとは言えない。ただそこには明確な違いがある。AIは言葉を接地させる身体を持たないが、ヒトは、接地させるかどうかは別として、接地させる身体を持っている点だ。
日々使っていることばは、モノの名前のように実体と身体がリンクして理解しているものがある一方、この連載で取り上げてきた医学情報では、「相対危険0.7」とか、「危険率0.03」とか、「統計学的に有意である」とか、ことばが抽象化して、身体的な結びつきがはっきりしないものも多い。そうした抽象的なことばの理解についていえば、AIがヒトに近づいているというより、ヒトが身体性を失って、AIの言葉の理解に近づいているのが実態ではないかという気がする。
たとえば「マスクが予防に有効というランダム化比較試験とそのメタ分析がある」ということばは、自分自身がマスクを付けていいのかどうか判断するための身体的経験を持たない中で、AIが理解するようにそのことばを理解しているのではないか。情報が人工知能のように、脳にだけ接地しているといってもいい。脳に心地よい接地が、そのことばを理解したとして、日々使うようになる。エビデンス偏重という現象の一面は、そんな風に説明できるかもしれない。
その反面、自分はマスクをしたことはないが感染していないとか、自分の周りにはマスクをしていて感染している人も多いという経験をしている人も少なからずいる。こうした経験はたやすく身体に接地して、マスクを付けても効果はないという判断をしているのかもしれない。こうした経験を通して身体化した判断には安定性がある。しかし、これは経験に基づいて、身体に接地したことばによる判断だからよいという風にも言い切れない。
また、自分の周りには、マスクしてもしなくても、感染する人としない人がいて、経験だけでは判断できないということもある。予防医療はそもそも身体に接地しにくい部分がある。そういう人もまた、抽象的な「マスクが予防に有効というランダム化比較試験とそのメタ分析がある」とか、逆に「マスクが予防に有効というランダム化比較試験とそのメタ分析はない」とかいう情報に基づいて、身体に接地しないままに判断している場合が多いだろう。身体に接地しない判断は不安定であるが、ただこれも悪いばかりではない。自分自身の経験だけでは判断できず、他人の経験まで取り込んで判断するというのは、もともと不安定な問題で、少なくともことばそのものの意味ではなく、そのことばが置かれた不安定さを身体化している面がある。
ここで明らかなことは、マスクを付けるにしろ、付けないにしろ、ことばを通して、考え、判断するしかないという状況である。そして、そのことばとして押し寄せる情報の束と、自分自身の経験をことばにしたものと、それらの経験が体に接地するか接地しないという点で、考えることで、とりあえずの判断を出すことができるかもしれない。さらには、判断を出すよりも、それによってさらに考え続けることができれば、それがもっとも重要なことではないかと考えている。
1)今井むつみ、秋田喜美 言葉の本質:ことばはどう生まれ、進化したか」 2023 中公新書