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2024年3月1日金曜日

恣意性の程度問題: 研究の恣意性、研究の読み手の恣意性

 私のように医学論文ばかり紹介していると、論文ばかり見ないで事実を見ろという批判がある。統計学的に検討された医学論文と言えど、事実を見ていないのはこれまで指摘してきた通りだ。研究者側が勝手に有意水準5%という基準を設けて有効といっているに過ぎない。しかし、それに対して研究ばかりでなく生のデータを見ろという人が事実を見ているかどうかと言えば、それもまた文節の恣意性から自由ではない。そこには研究よりもさらに恣意的な面がある。だから恣意的であるといってもまだ研究の方が恣意性の程度が低い場合が多く、その恣意性を系統的に吟味することもできる部分もあり、私自身は医学研究の結果の方に肩入れすることが多い。

ただそれも程度の問題で、どちらかというとということだし、恣意性から自由でない点で、医学論文も観察結果の生データも、たいして違いはないとも思う。

 そこで最も問題になるのが、恣意性の背景にある学問、理論である。恣意性の議論のスタートが、背景の学問を言語学に移して考えるとということであったので、また話が振出しに戻ったように思われるかもしれない。そうかもしれない。ただ、今はあらゆる学問の背景には、学問自体の勝手な理屈があり、恣意性の問題を常に考えなくてはいけないという前提の共通認識がある。そのうえで背景の学問についてもう一度考えてみたい。

 医学論文も生のデータも統計学的に扱われるが、その統計学の恣意性の程度についてまず考えてみる。統計学は日常的に使われる言葉だけでなく、数字を使用すし、数学を用いる。数字の理解に恣意性が入り込む余地は、一般的な言葉に比べれば小さい。ただそうはいっても、10%の差を大きいとみるか小さいとみるかという解釈のレベルでは、解釈する側の恣意性から逃れられない。さらにその10%の差というのが、どんな計算に基づいているか、数字の解釈の側では不明なことも多い。この連載で利用した四則計算だけであれば何とか理解可能かもしれない。相対危険減少で10%であれば、大した効果でないと感じるし、絶対危険減少で10%なら、かなり大きな効果と思うというように。しかしそれ以上の複雑な数学が使われると、多くの人はその部分はブラックボックスになる。さらに統計学的検定、信頼区間の計算となると、多くの人は吟味が困難で、どう計算されているのか理解するのはむつかしい。私自身もそうである。「多変量解析で交絡因子を調整した」と書いてあれば、それを信用するしかない。危険率が5%未満、95%信頼区間がいくつといくつの間だと言われれば、そこに恣意性があると認識しつつ、とりあえずそう受け止めるしかない。

信用するかしないかの境目は、有効/無効の境目よりもさらにあいまいで、恣意性が高い。情報そのものよりも、解釈する自身の恣意性の方がはるかに大きいというのが一般的だ。そこには正しいか正しくないかというより、信じるか信じないかというまさに恣意的というしかない状況がある。論文にしろ、生データにしろ、情報そのものの恣意性も問題だが、それよりなにより、使い手自身の問題が一番大きいのだ。

ここ3回にわたって、ソシュールの「言語の文節の恣意性」を基盤に、いろいろ考えてきた。わけがわからない。そうだと思う。でも、現実はそういうことなのだ。確実なデータも判断もない。データと事実にはギャップがある。事実が言葉や数字ですべて表現できるわけではない。どういう言葉を選び、どんな数字で表すかという恣意性が必ず入り込む。さらにデータと人の判断にはさらに大きなギャップがある。事実が何かなんてわかり様がない。それが身も蓋もない結論だ。しかし、だからこそ考える価値がある。事実が容易に認識できて、それによって正しい判断ができるというなら、何も考えることはない。迷いもない。逆にそこに困難、迷いがあるからこそ考えることができるし、その意味があるのではないだろうか。


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