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2012年7月23日月曜日

男と女の産み分け

 
男と女の産み分けについて、ちょっと考えてみた。

女の子じゃないといや、男の子じゃないといや。そういうことの延長上に、背の高い子じゃないといや、スポーツができる子じゃないといや、頭のよい子じゃないといや、と多分きりがなくなる。

産み分けたいという人は多分きっと産んでからも同じ問題に直面するだろう。こんなはずじゃなかったと。

思うようになる人生なんてのはたいしていいことない。思うようにならない中にこそ、何かがあった、そう思う。

産み分けたいと思う人は、思うように人生を生きられた人なのだろうか。思うように生きることのなれの果てが、産み分けしたいというような袋小路につながっているのだと思う。
生まれた子供は、思う通りになってほしいと思うような親の思うようにはならない。と書いてみて、これがまた、思う通りの子供に育てたりするのだろうな。

なんだかよくわからんが、思うようになんか生きなくてよい、生きるべきでもない。それだけは確かだ。

2012年7月13日金曜日

構造主義医療の挑戦:メモ


構造とはコトバとコトバの関係を記述したものの総体だと。
科学もこの形式によって記述されるし、文学だって例外ではない。

ただ物理や化学などの厳密科学は、時間を捨てることによって同一性を担保したコトバによって記述されるのに対し、文学はむしろ同一性が捨てられ、時間を生み出すコトバによって記述される。

医学や生物学は、その中間で、時間を捨てたコトバと時間を生み出すコトバの両方で語られる。

コトバにおける時間と同一性、そういう視点で見るだけで世界が変わる。

構築するとは、コトバは世界を作るという立場だ。構築主義と言えばそういう方向である。
構造も、コトバで記述するわけだが、現象のコトバのギャップに焦点を当てながら記述するというのが構築主義とは異なる。

コトバのぐるぐるまわしにならぬよう、第一義は現象にあることを忘れない。

現象とコトバのギャップに迫らなければ、構造を記述することはできないが、コトバとコトバをつないでいくだけでも世界の一部は構築される。より構築主義的なナラティブの落とし穴はこういうところにある。

もちろん現象とコトバのギャップばかりに気をとられると、コトバ同士のギャップを見落としたりする。

とりあえず整理できたことのメモ。