構造とはコトバとコトバの関係を記述したものの総体だと。
科学もこの形式によって記述されるし、文学だって例外ではない。
ただ物理や化学などの厳密科学は、時間を捨てることによって同一性を担保したコトバによって記述されるのに対し、文学はむしろ同一性が捨てられ、時間を生み出すコトバによって記述される。
医学や生物学は、その中間で、時間を捨てたコトバと時間を生み出すコトバの両方で語られる。
コトバにおける時間と同一性、そういう視点で見るだけで世界が変わる。
構築するとは、コトバは世界を作るという立場だ。構築主義と言えばそういう方向である。
構造も、コトバで記述するわけだが、現象のコトバのギャップに焦点を当てながら記述するというのが構築主義とは異なる。
コトバのぐるぐるまわしにならぬよう、第一義は現象にあることを忘れない。
現象とコトバのギャップに迫らなければ、構造を記述することはできないが、コトバとコトバをつないでいくだけでも世界の一部は構築される。より構築主義的なナラティブの落とし穴はこういうところにある。
もちろん現象とコトバのギャップばかりに気をとられると、コトバ同士のギャップを見落としたりする。
とりあえず整理できたことのメモ。
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