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2010年12月27日月曜日

不敬文学論序説

 
とても自分の能力で読み込めるような本ではなかったが、自分にとっても切実な問題が取り扱われていることだけはわかる。

深沢七郎からつながって手にした本だが、意外なところへ連れて行かれた。

考えてみれば、医療も健康追求教の教祖のもとにあり、それに背くことは不敬にあたる。その不敬が、きわめて巧妙にコントロールされる。決して不敬に対する罰があるわけでもないのに、信者が勝手に罰があるかのようにふるまってしまうことで、不敬罪なんかなくても、勝手に制御される高度な仕組みができている。恐るべし、健康追求教。

天皇制の中で小説を書くとはどういうことかというのと、とことん死を避けようとする中で、必ず死ぬ将来へ向けて医療を提供するとはどういうことなのか、というのは、とても似ている。

本来なら、天皇制は避けることができるし、小説は自由に書けるはずだ。
同じように、死を避けることなどできないが、死ぬ中で何かをなすということは可能なはずだ。

しかし、現実は、天皇制の中で小説は自由を奪われるし、死を避けることで生の自由が奪われている。

これから死ぬまで考え続けなくてはいけない課題の一つだと思う。
 

2010年12月25日土曜日

勝ち負け

 
勝ち負けについて考える機会があった。

自己実現、夢、出来れば遠ざけたい言葉たち。
遠ざけたいのは勝つことが前提にあるからだ。
それは単に個人的なことにすぎなくて、私自身が受験勉強で他人を押しのけて合格してきた過去が受け入れられないだけかもしれないが。

思い出すのは、小学校の国語の教科書。
テニスのデビスカップかなんかで、日本人の清水善三選手がどこかのチルデン選手と戦ったときのこと。ここを決めれば勝てるという場面で、チルデン選手が足を滑らせたのを見て、柔らかいボールを返して、結局負けてしまう。

清水選手のこの行為についてどう思うかを話し合った覚えがある。何を言ったかまでは全く記憶にないが、今はこの問いについて、少しは明確に答えることができる。

柔らかいボールを返すことこそ、生きるということである、と。

負けること。
負けることで何かをなすというのは、勝って何かをなすのより、ずっと価値があるのではないか。

世界に平和をもたらす人がいるとすれば、勝つ人ではなく、負ける人にちがいないと思う。
 

2010年12月21日火曜日

どこから来てどこへ行くのか

 
きのうニュースで家系図を書くソフトを取り扱っていた。自分のルーツを知りたい、どこから来たのか知りたい、そういう気持ちは広くあるのだろう。
ゴーギャンの絵のタイトルにそんなようなのがあって、師匠が何かの学会の講演の枕に使っていた。しかし、講演内容が思い出せない。師匠はよい弟子を持つことが出来ないという世の中の真理か。

自分自身としては、どこから来たのかということはもう手遅れで、無理して知ってとんででもないルーツだとそれも微妙なので、あまり家系図を追っかけようという気にはなれない。しかし、どこへ行くかというのは現実の問題としてある。

むかし、ダブルベッドという映画があって、キャストは大谷直子と石田えり、柄本明と岸辺一徳、監督は藤田敏八だったかな。ラストシーンでバイクに乗った男女が交わす会話。

「どこへ行く?」
「今から決めるわ」

どこへ行くか聞かないうちに、バイクは走り出す。空を戦闘機が横切っていく。そんなラストシーン。なぜか鮮明な記憶としてある。1回見たきりの映画で全然違うシーンかもしれないが。
行き着く先がわかっていないというのはとても不安だが、わかっているのもなんだかつまらない。ただ最終的に行き着く先は、死ぬということで、それに例外はない。もちろんで死んでからどうなるかという問題は残る。

だから、どこへ行くかという問題は、死ぬまでの問題と、死んでからの問題で、死ぬこと自体を避けた質問だ。この質問をそういうふうに位置づけて、改めて考えてみる。

まず、死ぬまでにどこへ行くのか。そして死んでからどこへ行くのか。

医者になるとか、へき地医療をやるとか、教育専門の医者になるとか、開業するとか。あちこち行くんだな。決めないうちに走り出して、道なりに走るというのはとてもいい生き方だったと思う。

死んでからのことはまあいいか。

行き先よりも、たぶんプロセスが大事、そういうことだ。ゴーギャンの絵をもう一度見てみたい。
 
 

2010年12月20日月曜日

成人学習理論

 
成人学習理論は多くの人に受け入れやすいだろう。
「私にぴったりした学習法」が獲得できれば、そんないいことはない。

でもこれじゃあだめなんじゃないかな。これは成人学習理論の最大の誤解ではないかと思う。
学習者のニーズが大事というところは、確かに大事だが、それは手段であって、目的ではない。
みんなここを誤解していると思う。ニーズからスタートすることは必要だが、行き着く先がどこかよくわからないのが成人学習である。それをアウトカムと呼ぶ。単に診断できるというのでなく、よりよい医療が提供できるというような、分けのわからないものに向かっていかなくてはいけない。ニーズから離れることが重要な場合が多い。

受験勉強とは違うのだ。みんな受験勉強が得意だったから、なかなかそこから離れられない。本当は受験勉強なんか嫌いだったはずだ。

内的な動機というものだけでは、よい学習にならない。
むしろメタレベルで自分の学習を振り返ることが成人学習の特徴だ。

自分は自分以外のものからできている、というのはメタレベルの認知に他ならない。

成人学習とは、答えのない問を問い続けることである、というほうが自分にははるかにピッタリくる。

手段は様々、何でもいい。その1つの手段としての成人学習理論という視点を見失ってはいけないのではないか。理論とは所詮道具なのである。

EBMが道具であるように、成人学習理論も道具である。
EBMを道具に学習した経験に基づくだけで、エビデンスには基づいていないが、たぶんそういうことだ。
 
 

2010年12月17日金曜日

やりたいことと期待されること

 
やりたいことはあまりない。
そんなことはないだろうという反論に、とりあえずこう言っておこう。

死にたいというのもやりたいことの一つだ。

やりたいことがやれないということより、何も期待されないということの方がはるかにきつい。

と書いていると松井の入団発表のニュース。

巨人入団にこだわった江川はやりたいことはできたかもしれないが、無理やり入団して期待されることが小さくなった分、やはりきつかったのではないか。
松井はおおばけするかもしれない。

わたしもまた、やりたいことよりも、何かを期待されることで生きていけると思う。

世の中はでかいし、わたしは小さい。

人の命は地球よりはるかに軽い。それでいいじゃないか。
 

2010年12月16日木曜日

アイデンティティ

 
いつから使われるようになった言葉なのか。
余計な御世話だと思う。

家庭医のアイデンティティとか、総合医のアイデンティティとか。

臓器別専門の網からこぼれおちる患者がいる以上、それ以外に何の理由が必要か。

臓器別専門医でない医者というのではアイデンティティが保てないと思うなら、臓器別専門医になればいい。臓器別専門医の仕事もやりがいがあるし、必要とされる仕事だ。

へき地医療にかかわる中で、「へき地がある限りへき地医療がその存在意義を失うことはない」、ということを明確に自覚した。へき地医療は都会では必要ないが、へき地には必要である、当たり前のことだ。

今となれば「へき地に長くいると、へき地でしか通用しなくなる医者になるぞ」、という問いに対し、「望むところだ、へき地で通用しない都会の医療をへき地でやってどうする」、と明確に答えることはそれほど難しいことではない、と思う。自分がへき地医療をやりたいかどうかなんてのは、全くどうでもよい。そう思えたとき、目の前には大きな世界が広がっていたと思う。
 
アイデンティティなんて言葉は捨ててしまえ。

自分は自分以外のものでできている。
 

2010年12月10日金曜日

別にころっと逝くならいいんですけど

 
「別にころっと逝くなら今死んでもいいんだけど」といいながら、あれが心配、これが心配という患者さんがたくさん現れる。

「寝たきりになっちゃ困るから」、「介護が必要になって迷惑かけてはいけないから」、そういうことだろう。

そうした患者さんに次のように言ってみる。

「それなら、きょう死んじゃうという手あるんですけどね。お手伝いしますよ」

むりだな。

しかし、積極的安楽死、というのは大きな選択肢だと思う。
1人で自殺というよりは、誰かの手を借りて、少しはいいような気もする。
ただ逆に、最後は1人で、というのもとてもいい気がする。

自分のからだは自分のものではないという考えもあり、死に方について、自分ひとりで決めるよりは、多くの人の合意で、決めたほうがいいのかもしれない。
しかし多くの人はそんな場にかかわりあいたくないだろう。そうなると、やはりそれは家族の役割だったり、医療従事者の仕事ということになるのか。
 
極楽まくらおとしのリアルさは、時代の要請か。そんなわけないか。
考える価値はある。
 
 

2010年12月6日月曜日

怒る患者

 
入ってくるなり怒っている患者。
かぜ全然治らない。鼻水が出て匂いがわからない。毎日かカイゲン飲んでいるのに。
その上一時間も待たされ、かえって調子が悪くなる。早く何とかして。

早口で、鼻が詰まっている様子もないし、その間鼻をかむでもない。

熱もないし、食事も摂れるし、鼻水くらい。
診察上異常ない。

このまま様子みても、というなり激怒。

相談して決めたほうがいい。こっちはプロだし、いい解決方法提示しますよ。
そういう提案をすべて拒否して、説明を途中でさえぎって、勝手に出て行ってしまった。

患者中心の医療、なんて言葉はやめるべきだと思う。

患者中心の医療の背後には、儲かる医療、ものが売れる医療という構造があり、そんなものは全然患者中心じゃない。

今日の患者だって、「はやめの○○○」、みたいなかぜ薬のコマーシャルにだまされた被害者だ。
 

2010年12月4日土曜日

みちのくの人形たち

 
みちのくの人形たちを読んだ。

間引きについての小説、と言うと誤解があるか。

すべては自らの問題として、地域で支える仕組み。

産婦人科医に委託したところで、何も解決してはない。

しかし、解決を必要とする問題ではないのかもしれない。

「人が減れば、世の中平和になる」

解決すべき問題は、人口問題か。
 

2010年12月1日水曜日

情報は操作されている2

ある会で低コレステロールと死亡の関係についての議論。

観察研究で低コレステロールと死亡の関係をいくら指摘しても、コレステロールを下げてはいけないということの根拠にはならない。

その意見に何の異論もない。

そこで介入研究で、総死亡が増加する、がんが増加する、脳出血が増加する、非心血管疾患が増加する、というランダム化比較試験やランダム化比較試験のメタ分析を紹介したのだが、誰もそれに触れない。全くの無視。

これは何か恐ろしいことのような気がする。