引き続き、言語学を助けに、いろいろ考えてみる。「言語の本質」1)で、ことばの習得過程について検討されているが、これを医学情報におけることばの習得過程、具体的には「
マスクが予防に有効というランダム化比較試験とそのメタ分析がある」とか「マスクが予防に有効というランダム化比較試験とそのメタ分析がない」とかいうことばの束の意味をどのように習得するかに重ねて検討してみる。
「言語の本質」では、アブダクションという推論方法を基に、ことばの習得過程を明らかにしている。まずアブダクションについて説明しておこう。推論方法には演繹法、帰納法がある。それに加えて3つ目の推論方法としてアブダクションが挙げられている。まず以下に例を示そう。
演繹
マスクは感染を予防する
彼はマスクをしている
彼は感染しない
帰納
感染しなかった人は全員マスクをしていた
今日出会った人もマスクをしていた
マスクは感染を予防する
アブダクション
マスクは感染を予防する
周囲の人はみんなマスクをしている
彼はマスクをしている
演繹は、その内部においては正しい。ただ前提の「マスクは感染を予防する」が間違っていれば、当然結論も間違う。自分の中では正しい論理が、外の世界では間違いとされるということである。
帰納については、そもそもマスクをしていても感染する人が出てくれば正しくないことになる。前提の正しさを問わなくても、内部の推論としての結論に間違いの可能性がある。
それではアブダクションはどうか。これはそもそも仮説生成に過ぎない。みんながマスクをしているからと言って「彼がマスクをしている」かどうかはわからない。「彼はマスクをしている」というのは仮説であって、そもそも正しいかどうかを問うてはいない。
これをマスクに関する医学情報に繋げて考えてみる。「マスクを付ける」という判断をした人には、「マスクは感染予防に有効である」という前提がある。しかし、その前提は多くの人を集めて帰納的に得られた研究結果に基づくもので、今後別の研究で「有効でない」という可能性は常に残されている。さらに、重症者を見ている病院の医師の多くは、マスクをせずに重症化した人を多く経験し、マスクをしていて重症化するという経験から、感染していない人はマスクを付けているに違いないという間違いも犯しやすいだろう。
逆に「マスクを付けない」という判断をした人も同様である。ここには「マスクは感染予防に有効でない」という前提がある。しかしそれも、マスクが有効という研究によって、覆される仮説にすぎない。さらに、アブダクションにより、私はマスクをしてなくても感染しなかったという経験と、周囲にマスクをしない人が増えても感染が減り続ける状況から、マスクは有効でない」という仮説を結論としてしまいやすい。
こう書くとどうやっても間違えるしかないということになりかねない。しかし、言語の習得ということで言えば、この間違いの繰り返しが、接地しない抽象的な言語を習得するために必要不可欠なことだというのである。得られた結論は常に仮説にすぎない。疑ってかかりながら、日々暫定的に判断し、行動していくほかない。ただそれが言語習得を進歩させる。誤りこそが進歩をけん引していくのである。
ここで重要なことは、ヒトはとにかく間違えるということである。帰納法も誤るし、アブダクションはそもそも仮説にすぎない。さらに演繹も機能やアブダクションから得られたものを基盤にしており、その前提が正しいとは限らない。論理的に考えることは間違えることだと言ってもいい。そしてその間違いを修正することで、言語が進歩し、科学が進歩してきたということである。このことが「言語の本質」の中で明確に指摘されている。
「人間はアブダクションという、非論理的で誤りを犯すリスクがある推論をことばの意味の学習を始める前からずっとしている。それによって人間は子どもの頃から、そして成人になっても論理的な過ちを犯すことをし続ける。しかし、この推論こそが言語の習得を可能にし、科学の発展を可能にしたのである」
ここでは言語だけでなく、科学の進歩にまで言及されている。この部分を読んで、これこそ私自身が根拠に基づく医療:EBMを実践する中で、学んだことではなかったか、そう実感する。実感するというのは今日の文脈で言えば、身体化すると言ってもいい。
抽象化したことばが身体に接地するためには、長い時間が必要だし、誤りを直し続ける必要がある。そして、それは言葉や科学に限ったことではなく、日々の生活そのものにも当てはまることではないだろうか。
1) 今井むつみ、秋田喜美 言葉の本質:ことばはどう生まれ、進化したか」 2023 中公新書