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2024年1月5日金曜日

 

反証可能性と統計学的手法

有意水準と検出力

 

 私の書くものに対して、「結局何を言いたいのかわからない」という批判がしばしば寄せられる。マスクの着用に関しても書いてきたこともその通りだと思う。結局どうすればよいかについては書いていない。根拠に基づく医療:EBMについて講演した後の質問でも同様だ。「結局あなたは治療を勧めるんですか、勧めないんですか?」と聞かれることも多い。

 この質問に対する私の回答は明確だ。「それをあなた自身が考えるための手法がEBMです。ご自身で考えてみてください」ということである。この連載も同じである。判断するより、調べよう、考え続けよう、そういうことを繰り返し書いてきた。 

判断というのは考えることをやめることでもある。判断と思考停止はどこが違うのか。思考停止は判断の一部である。そうしなければ判断できない。しかし、それは思考の一旦停止に過ぎない。判断はあくまで暫定的なものである。科学的な視点で言えば、「反証可能性」が科学を担保している。一旦正しいとされても、それが反証の余地を残していることが科学の要件であるという哲学者がいる。カール・ポパーである。

「反証可能性」が科学と科学でないものを区別するということについて、少し説明を加えよう。例えば「神は存在するか」という疑問に対して、「神はいる」「神はいない」とどちらをとるにしても、それを反証する手立てがない。これは科学的な言明ではない。信じるか信じないかというのは科学的言明ではないといってもいい。それに対して、「すべてのカラスは黒い」というのはどうか。これは「白いカラス」が発見されることによって反証される。したがってこれは科学的言明ということになる。

何かおかしな感じがするだろう。帰納法によって、「カラスは黒い」という観察の繰り返しが科学の正しさを支えているにもかかわらず、それが同時に、白いカラスの出現で反証され正しくないということになるのが科学だというのだ。これはある意味帰納法の否定である。統計学は機能的な手続きの代表である。ポパーの反証主義は統計学の否定という側面がある。しかしそうではない。統計学はこの反証主義を取り込むことによってこそ成り立っている。「有意水準」というものである。差があるという結果が間違っている可能性を許容する基準、あるいは検討する医療行為がまぐれでいいと出てしまった可能性をどこまで許するかといってもよい。学論文では通常5%が採用される。つまり統計学的に有意な効果を示した研究であっても、5%はは反証可能性が残っているということである。統計学は反証主義に反するどころか反証主義そのものなのである。

これに対して、効果がないという結果が示されたときにはどのように考えるか。これに対しては「検出力」という基準がある。有意水準は差がないときに差があるとしてしまう間違いでαエラーをも言われる。それに対して差があるときに誤ってないとしてしまうこともある。この間違いをβエラーという。これは有意水準より緩く、10%に設定されることが多い。差を見つけるために研究するという方向のバイアスに対して、間違って見つけるエラーに厳しく、間違って差を見逃すエラーには緩くなっているという背景がある。そのβエラーを1から引いたものが検出力である。差があるときに差があるといえる確率である。βエラーを10%に設定すれば検出力は90%になる。ここにも反証可能性が担保されている 

私が判断を避けて書き続けることに対して、「結論は出ている」と思う人が多いかもしれない。しかしそれは科学的な態度ではない。ましてや統計学的な検討には常に「反証可能性」がある。思考を停止しないためには、判断した後も考え続けなければいけない。科学的思考には一旦停止があるだけである。むしろ必要なのは判断停止の方である。

 マスクに対して結論が出ていると考える人も、もう一度その判断を停止して、勉強を継続するといいのではないだろうか。

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