2010年10月1日金曜日
原爆ドームに行く
先週より、高知、長崎、間をおいて広島の旅である。
長崎、広島、これは何かの縁かもしれない。原爆ドームへ行ってみた。高校の修学旅行、プライマリ・ケア学会、医師会の講演会、これが4度目くらいだろうか。
原爆ドームの周囲で、たまたまボランティアの人の説明を聞く。胎内被曝したその当人が説明してくれる。1時間ほどの間、とにかくしゃべり続けている。
いかり、うらみ、それが原動力のように思える。
自分も昨晩1時間半ほどハイテンションで研修医に向けてしゃべり続けて、聞き手はやはり同じように感じただろうか。これはいかり、うらみではないかと。
自分に照らし合わせてみているだけか。いかりとかうらみとか、ばかばかしい気がする。
忘れることの方がずっと重要ではないか。
戦争を忘れない、というようなことが実は次の戦争につながっている。歴史を勉強すればするほど、他国への恨みが増す、というのはある面当然の反応のようにも思える。歴史を全く勉強しなければ、戦争というものに気がつかないということがあるかもしれない。
戦争のことをすっかり忘れてしまったものだけが、戦争を起こさない、そんなわけないか。
それにつけても国というのは不思議なものだ。しかし、不思議なのは国だけじゃない。都道府県も、市町村も、地域というのも、組織というのも、家族というのも、夫婦というのも、全部不思議。その間で起こるのはどれも戦争だ。
夫婦喧嘩が無くならないように、戦争もなくならない。そういう意味では、戦争をなくすというような無謀な方向ではなく、戦争の約束をこれまでの戦争と違うものとして決めるというのは一つの方法としてあるかもしれない。たとえば戦争ゲームで決着するとか。
でも、実際の戦争だってゲームのようなものだと言えないことはない。それならいっそのこと本当にバーチャルなゲームにしてしまう、なんて出来るわけないか。
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