今までまともに読んだことがなかったのだけど、読んでみて、いろいろ驚くことばかりだ。
なんで今頃になって森鴎外を読んだか。よくわからんが、高校の教科書に載っていた「寒山拾得」の最後に、「パパも本当は文殊なのだけれども、誰も拝みに来ないのだよ」というような記述がなぜか延々印象に残っていて、そんなことがちょっと関係しているのか。あるいはアメリカ帰りの医師たちの発言に、時代はまだ漱石、鴎外の時代と何も変わっていないじゃないか、というような気分になったこともあるかもしれない。
読みたいと思って初めて理解できることが出てきた。
鴎外を読め!
ただ読みたい人は、というわけで、無理やり読んだところでくたびれるだけかもしれない。
読みたい人とは誰か。読んでもいない本が読みたい、不思議なことだが、そういうことが重要なのだ。
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