最初は、何か「自分らしい」というような一つの解答があると思っていた。
いくらでも選択肢がある。そして、正答などどこにもない。唯一「生きない」という選択肢を除けば。そう思えるようになった。
生きるというのであれば、もうそれでOKだ。どうでもいいと言っていい。生きてさえいれば。
そこからスタートして、今や「生きない」というのも十分選択肢の一つだということが明確になる。むしろ、現代こそ「生きない」という選択肢をもって、「生きる」ことができる時代ではないか。
70になると姥捨ての山に行く、というような世の中では、どうしても山へ行くのがいやで、家族に無理やり道の途中で崖下へ突き落されてしまうような人が、不自然な人と描かれるように。
しかし、かつてと今では同じではない。山へ自ら行く老人と現代の自殺者、全く違う気がする。しかしそれでも似ているところがあるのではないかと、考えを進めてみる。
自殺者3万人。それは不幸なことだが、同時にどこかで「生きる」ことのあり方を示している。
100年たって、「毎年自殺者が3万人もいたのだ」と振り返られるような時代が来たとして、100年後もまだ、「かつてそんな不幸なことが」なんて反応されたら、それこそ立つ瀬がないのは自殺者ではないか。
政治家の靖国参拝では、戦争で死んだ人たちが決して救われない気がするのと同じように。
少しややこしいことになってしまった。
「死ぬのはよいことである」というような発言すら陳腐化しそうな世の中で、「死んでかわいそう」とかいうのはもう、思考停止以外の何物ではない。そこですべきは、思考停止ではなく、判断を停止して思考を開始することだ。
天皇陛下のために死ぬというのも、できるだけ長生きするというのも、実はとても似ている。
「大日本帝国が万世一系の天皇のもとにあった」と言われるように、「日本は世界で最も長寿の国です」と言われる。一方は死ぬことが美徳、一方は長生きが美徳。逆のように思えるが、ひとつの信仰のもとにあるという意味では似ている。わかりにくいな。
また、お国のために死になさいと教育された時代と、いい大学に入りなさいと言われる時代は似ている。方向は違うが構造は同じだ。
変わってしまった時代の中で、全然変わっていないことが、壁になってうまくいかない。
今、私たちはそういう場所にいる。
「そういう場所」についてしばらく考え続けたい。
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