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2023年12月28日木曜日

個人の問題と公共の問題 :医療以外の問題に目を向ける

 

個人の問題と公共の問題

医療以外の問題に目を向ける

 

 マスク着用の効果を検討した論文を元に、医学情報をどう個人に役立てるか、あるいは学校に対して情報をどう届けるかなどを例に、情報の具体的な利用方法や、その困難さについて取り上げてきた。

妥当性の高い医学論文があれば、どうすればよいかは明らかになると考える人が多いかもしれないが、そんな単純な問題ではないことを、この連載で繰り返し指摘してきた。ただそれに対して、マスクはつけた方がいいのか、つけない方がいいのかという判断を求める意見があることは十分承知している。

しかし、つけた方がいいのか、どうなのか、はっきりしないことは、実際の医学論文を読み込んでいけば明らかである。ただその医学論文を「統計学的に有意な差」があるかどうかという点に限って評価をした時に、そのことに限って言えば効果があると、その狭い学問の中ではっきりさせたというだけである。さらにそこで使われる基準は5%の誤りは許容しようというあいまいなものである。5%の背景を数字で説明することは困難だ。統計学そのものが数字だけで説明できるわけではない。

 

上記のようなことを考えながら日々の診療をし、2014年に「健康第一は間違っている」1)という本を書いた。その本に書いた結論めいたことを自分なりに要約してみる。

 

世界一の長寿を達成したにも関わらず、健康欲望にはキリがない。さらなる健康を目指すより、健康欲望をコントロールし、それにキリをつけることの方が幸せにつながるのではないか。また高齢になるほど、医療の効果は微妙になり、医療から受ける恩恵は小さくなる。さらにその恩恵も確率的にしか示すことができず、個人に対する効果を予測することは困難だ。高齢者にとって医療は賭けである。健康長寿をもたらす確実な方法などない。うまく行かないことも受け入れ、上手に賭けることを考えた方がいいのではないか。さらには自分自身のことより、次の世代に引き継ぎ、若者に譲っていくことを考えるのもいいのではないか。

 

上記の考えに至るまでに、多くの医学論文を読み込んだことが背景になっている。その影響を端的に言えば、医学論文を読み込んでも、目の前の患者にどうしたらよいかはわからないということである。

 数字を多面的に見ること。統計学的に見るだけでなく。数字もまた社会学的に見ることはできるし、人類学的に、倫理的に見ることも可能だ。哲学的にミルkだって同様だ。さらに数字だけでは表すことができないことも多い。むしろ数字では一部のことしか表現することができない。医学論文のなかにも、質的研究という数字を用いない研究手法もある。

そのような多様な学問背景のうち、治療や予防効果を測る数字や手法、統計学的な有意差について改めて考え直す大きなきっかけとなったのが、実は科学哲学、具体的にはポパーの反証主義と言語学、特にソシュールの言語学であった。次回からは統計学と科学哲学、言語学のつながりから、集団に対するデータの個人への適用について、さらに考えを進めたい。

 

参考文献

1)     名郷直樹 健康第一は間違っている 2014 筑摩書房


自著の宣伝に使われては困るといわれた原稿です。

 

2023年12月21日木曜日

 論文で取り扱われていないアウトカム

医療を受けて幸せになるかどうか

 どんなに妥当性の高い信頼に足る医学研究があっても、実際に現場の判断は困難で、医学的という観点からだけでも複雑であることについて、繰り返し取り上げてきた。さらには医学以外の問題も加えてとなると、その困難はさらに大きくなる。ここから先はその医学以外の問題を加えてどう判断すべきかについて考えたいが、その医学以外の問題を考慮するにあたって、もう一度医学研究の限界について明らかにしておきたい。

医学研究で医療行為の効果を測るにあたって、評価されるのはコロナに感染するかどうか、入院が必要になるかどうか、重症化するかどうか、人工呼吸やECMOが必要になるかどうか、さらには死亡が避けられるかどうかなどある。しかし、そうした医学的な問題は、全体として「幸せになるかどうか」ということを無視している面がある。

具体的言えば、出来るだけ外出を控え、誰とも会わず、外出時はマスクをして、副作用の危険を心配しながらワクチンを打ち、コロナ感染が予防できたのに、全然幸せじゃないし、むしろ不幸だという状況である。ここに医学研究の最大の限界がある。マスクの効果にしろ、ワクチンの効果にしろ、抗ウイルス薬などの治療薬の効果にしても、幸せになるかどうかという視点で研究するのはとても困難で、ある意味「仕方なく」、感染予防ができるかどうか、重症化しないかどうか、死を避けることができるかどうかで評価しているのである。

もちろん幸せを指標化して評価するというのも可能ではあるが、幸せは個別の要素が大きく、平均的な効果と個別の患者のギャップが大きすぎて、現場での利用がさらにむつかしい。

コロナで死ぬというのも、幸せということに繋げれば、高齢者にとっては順番を守って死ぬいい機会だというふうに思う高齢者もいるだろう。むしろそういう多様性が受け入れられることの方が幸せな社会ということだったりする。ほとんどの人がコロナにかかりたくない、重症化は避けたい、重症化したら人工呼吸器やECMOの治療を受けたい、死ぬのは避けたいという世の中は、それはそれで息苦しい面もある。 

さらにSNSでのマスクやワクチンについての発言を見ていると、まるでデマとしか言いようのない情報を信じて、妥当性の高い医学研究を誤解している人たちの方が、だいたい元気で、幸せそうに見える。幸せと正しい/正しくないには相当なギャップがあるし、そもそも関係ないという気もする。間違っていても幸せということはいくらでもある。死ぬまで騙されていれば、それで解決という風にも考えられる。 

正しい/正しくないより、信じる/信じないというのが世の王道である。「信じる者は救われる」ということかもしれない。医学的に正しい/正しくないにしても、結局医学を信じる/信じないかという同じ問題に過ぎないような気もする。 

しかし、信じる/信じないというだけでなく、信仰そのものを持たないという選択肢がある。この連載で取り上げたいのはそういうことでもある。

信じる/信じないだけでなく、そうかといって正しい/正しくないだけでもない方向性。医学研究なしに判断することも困難だし、医学研究だけで判断することなどできないというのが現実に沿った方向性である。

そこで、社会学、人類学、哲学、政治学、倫理学などが必要となる。それはそれでまたより大きな困難を抱えるということでもあるが、医学研究なしに判断することができないように、これらの学問的知見を無視して判断することもできない。そうした困難に対して、話題を医学以外の領域へも向けて、引き続き考え続けたい。

 

2023年12月20日水曜日

発言するなと言われたけれど、何も発言していなかったこと

 振り返ってみると、福島の甲状腺がんの問題について、論座の投稿、2019のブログ以降発言したことはなかった。むしろその方が問題だった。それを今頃になって「発言するな」と津田さんがコメントを寄せたのはどういうことなのか。こっちは全然発言してなかったのに。何か起きているのかもしれないけど、何が起きているのかわからない。

さらに、津田さんが甲状腺がんの過剰診断について発言している資料は見つからない。

訳が分からない。

改めて発言しておく。

すでに検診は行われてしまった。見つかった甲状腺がんの患者のフォローが大事。個別の人たちへの個別の相談が重要。検診を直ちにやめた方がいい。検査をするかどうかは個別に相談して決めるべき。その意見に変わりない。

2023年12月17日日曜日

その後の議論の資料は昔読んでいたらしい

 津田さんのその後の発言

tits_22_4_19 (jst.go.jp)

私のHDにあったものなので、読んだのだろうけど記憶にない。

改めて読む。

私とは別世界に住んでおられる。

ダウンロードは2019年。

論文の内的妥当性の話ばかりしていて、健診を受けた個別の人でどんなことが起こるかには触れていない。そこで困ってるというのが現実だが、そういうことが全然わかっていないのではないだろうか。

津田さんは公衆衛生の専門家であって、臨床の専門家ではないので、そこは発言しないということかもしれない。それであれば臨床家の意見を封じるのではなく、聞いた方がいいでしょう。

論座に書いたのも、ブログに書いたのも、別に公衆衛生の専門家として書いたわけじゃない。そんなことは考えてもいない。

ただ一言言っておこう。

津田さんは臨床の専門家ではない。でも臨床について発言してもいいですよ。

私のような非専門家が、福島で被爆した子供であって、甲状腺がんが見つかり、過剰診断について勉強して、検診なんか受けなければよかったと言ったら、どうこたえるか、それについて彼の意見を求めたい。

ぜひ発言してほしい。

津田さんの論文を読んでみた

 津田さんの論文とその後の議論を読んでみた。

Thyroid Cancer Detection by Ultrasound Among Residents Ages 18 Years and Younger in Fukushima, Japan: 2011 to 2014 - PubMed (nih.gov)

被ばくによって甲状腺がんが増加していると。

ただそれをどう個人に説明するかの議論はない。

もちろんそれは論文の外のことかもしれない。

しかし、外的妥当性の議論は重要だ。

彼はEBMのステップ4について無知だと思う。

過剰診断についてどう説明するのか。

乳がんについてその議論は尽きていると。

どう尽きているのか聞きたい。

津田さんが専門家だというなら、非専門家である私の発言を封じるのではなく、説明責任があるのではないだろうか。


2023年12月15日金曜日

4年ぶりの投稿:日刊ゲンダイの連載を終了して、その後

 これはブログではないという編集者から批判とともに日刊ゲンダイの連載が終了し、どこかで続きをやれないかと思案していたところ、それこそブログでどうかというおすすめもあり、数年ぶりに自分のブログを訪ねてみた。

 そこには今年の春にコメントがあり、今度は「公的メディアで「専門知識があるかのように」述べるのはやめるべきです。」だと。

 「専門知識があるかのように」というのだから、私には「それがない」という指摘の上に、さらに「述べるのはやめるべき」だと。

 また、今回は一般人である編集者から、「専門的すぎる」、あげくのはては「ブログではないので個人的な経験は削除」と言われて連載終了。

 私は一般人でも専門家でもなく、いったい何者か。

 少なくとも津田さんのように専門家と非専門家を区別できるわけでもないし、編集者のように専門的と非専門的を区別できるわけではない。

 津田さん個人については何も知らないが、大学教授という肩書を見るに、立派な人なのでしょう。立派がどういうことなのか、よく知らない私ですが。

 これまでも大学教授からはいろいろな批判を受けた。

難病の研究班だったかでEBMを紹介したときに「教授を集めて聞かせるような話でない」

学会の講演が終わるなり、シンポジウムの座長が「理事長、何か言いたいことがあるでしょう。ディスカッションの前に、お願いします」というと理事長が、ディスカッションの時間をつぶして「検診事業を邪魔する奴は許さん」と

別の学会でも、講演が終わるなり「お前は論文ばかり読んでないでちゃんと診察しろ」

さらに産業医講習会の参加者として、女性のホルモン補充療法のランダム化比較試験のネガティブな結果について、この結果を受けて補充療法をどうすべきかと質問したら、「私は続ける。あなたは好きなようにすればいい」。「好きなようにしてるのはあなたですよ」と小声で反論。聞こえてないだろうけど。

教授じゃないものを含めれば、きりがない。

でもそれはとても愉快な経験だった。

血沸き肉躍るというか。田舎の診療所長の肩書で、大学教授を怒らせる。痛快だった。

そのうちEBMの専門家として見られるようになり、いろいろ話すと、褒められたり、礼を言われるようになった。話してくれとか、書いてくれとかいう依頼もたくさん来た。

そこで30年が過ぎた。開業医として10年働き、2年前に引退した。都市部のクリニックの名誉院長という肩書。田舎の診療所長から多少は出世したか。そうでもない気がする。

再び大学教授から「専門家であるように述べるな」

また愉快なことになってきた。

30年前を蒸し返したい。

でも少し事情が違う。

 編集者は、タブロイド紙とはいえ、私の原稿を数年にわたって掲載してくれた、私の書くことをよく知っている編集者だった。その編集者から、一般向けの原稿ではないと批判される。というところだが、変わったのは私なのか、彼なのか、それとも両方か。はたまた社会なのか。もはや私は一般人でもなく、専門家でもない。

 とブログに書いているのだが、差し当たって連載内容と直接関係はなく、間接的には関係があるかもしれない。

連載の原稿はまたそのうち。