論文で取り扱われていないアウトカム
医療を受けて幸せになるかどうか
どんなに妥当性の高い信頼に足る医学研究があっても、実際に現場の判断は困難で、医学的という観点からだけでも複雑であることについて、繰り返し取り上げてきた。さらには医学以外の問題も加えてとなると、その困難はさらに大きくなる。ここから先はその医学以外の問題を加えてどう判断すべきかについて考えたいが、その医学以外の問題を考慮するにあたって、もう一度医学研究の限界について明らかにしておきたい。
医学研究で医療行為の効果を測るにあたって、評価されるのはコロナに感染するかどうか、入院が必要になるかどうか、重症化するかどうか、人工呼吸やECMOが必要になるかどうか、さらには死亡が避けられるかどうかなどある。しかし、そうした医学的な問題は、全体として「幸せになるかどうか」ということを無視している面がある。
具体的言えば、出来るだけ外出を控え、誰とも会わず、外出時はマスクをして、副作用の危険を心配しながらワクチンを打ち、コロナ感染が予防できたのに、全然幸せじゃないし、むしろ不幸だという状況である。ここに医学研究の最大の限界がある。マスクの効果にしろ、ワクチンの効果にしろ、抗ウイルス薬などの治療薬の効果にしても、幸せになるかどうかという視点で研究するのはとても困難で、ある意味「仕方なく」、感染予防ができるかどうか、重症化しないかどうか、死を避けることができるかどうかで評価しているのである。
もちろん幸せを指標化して評価するというのも可能ではあるが、幸せは個別の要素が大きく、平均的な効果と個別の患者のギャップが大きすぎて、現場での利用がさらにむつかしい。
コロナで死ぬというのも、幸せということに繋げれば、高齢者にとっては順番を守って死ぬいい機会だというふうに思う高齢者もいるだろう。むしろそういう多様性が受け入れられることの方が幸せな社会ということだったりする。ほとんどの人がコロナにかかりたくない、重症化は避けたい、重症化したら人工呼吸器やECMOの治療を受けたい、死ぬのは避けたいという世の中は、それはそれで息苦しい面もある。
さらにSNSでのマスクやワクチンについての発言を見ていると、まるでデマとしか言いようのない情報を信じて、妥当性の高い医学研究を誤解している人たちの方が、だいたい元気で、幸せそうに見える。幸せと正しい/正しくないには相当なギャップがあるし、そもそも関係ないという気もする。間違っていても幸せということはいくらでもある。死ぬまで騙されていれば、それで解決という風にも考えられる。
正しい/正しくないより、信じる/信じないというのが世の王道である。「信じる者は救われる」ということかもしれない。医学的に正しい/正しくないにしても、結局医学を信じる/信じないかという同じ問題に過ぎないような気もする。
しかし、信じる/信じないというだけでなく、信仰そのものを持たないという選択肢がある。この連載で取り上げたいのはそういうことでもある。
信じる/信じないだけでなく、そうかといって正しい/正しくないだけでもない方向性。医学研究なしに判断することも困難だし、医学研究だけで判断することなどできないというのが現実に沿った方向性である。
そこで、社会学、人類学、哲学、政治学、倫理学などが必要となる。それはそれでまたより大きな困難を抱えるということでもあるが、医学研究なしに判断することができないように、これらの学問的知見を無視して判断することもできない。そうした困難に対して、話題を医学以外の領域へも向けて、引き続き考え続けたい。
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