ここで働いています

2009年11月26日木曜日

治療を拒否する患者さん

今日は医療倫理についての話題で研修医とディスカッション。
倫理の面で何か問題を感じた患者はいますか、と聞くと、なかなかでてこない。そもそも倫理ということが何か縁遠いことである。ちょうど、昨日のニュースで代理母のことがあったので、例として話してみる。
患者も子供がほしいし、その母も自分の子宮を使うことに同意しているし、産婦人科医もやろうという。そして実際、母が自分の娘の子を出産する。全員同意の上だが、それでいいのかどうか。どう思うか研修医に聞いてみる。いいと思う、即座にそう答える。
しかし世の中はそう甘くない。産婦人科学会が、反対の声明を出す。
当事者だけでは決められないことってある。社会的に見て公正かどうか、そういう視点を持たないと、大変な間違いをおかしてしまうかもしれない。たとえば原子爆弾の発明。代理出産にそういう面があるかどうか、考えてみる。それが今日の話題。
まだわかったような分からない話。とにかく話を進めてみる。
「倫理の問題について少しわかったと思うけど、何か自分で思い当たる患者さんはいない?」
「そういえば外科ローテート中に、早期胃ガンで手術を拒否した患者がいました」
「どんなところに倫理的な問題があった?」
「手術をすれば治るのに、娘が漢方医で、漢方に頼っている間に、進行がんになって亡くなってしまいました」
「どこに倫理的問題があったと思う?」
「手術をせずに死んでしまったところですか?」
そうなのだ。そういう議論になってしまうのである。そういうとはどういうことか。私の意見は明確だ。研修医が言うところに倫理的な問題などない。手術をせずにすんだことは、むしろ倫理的な手続きが踏まれた証拠である。
「じゃあちょっと質問。早期胃がんで根治手術が施行された、こんな患者なら倫理的な、問題はないだろうか」
「そう思います」
「もしその患者が、もう十分生きたと思っており、手術はイヤで本当は治療を拒否したいと思っていたのを言い出せなかったとしたら?」
患者が手術を拒否すると言えたことで、一つ倫理的なプロセスが乗り越えられている。逆に、治療の拒否ができないまま治療が提供されたとしたら、その方が倫理的に問題がある。そこがこの患者の倫理的な問題のポイントなんだけど。この患者の場合は、治療拒否に問題があるのではなくて、その際に、手術や他の治療の有効性や危険について、きちんと説明されていたがどうかが、問題なのだ。
患者は治療を拒否する権利がある。倫理的な医療を行うための必須の項目である。ただ、世の中の患者は、とにかく治りたいし、言い医療を受けたいし、そこに倫理的な問題があろうとは多くの場合夢にも思わない。そして、医者はさらにそうだ。
多くの医者にこういう話をすると、患者が拒否することが倫理的?アホかと思われる。確かにこれだけ医療が進んだ中で、拒否の選択肢があるなんて考えるのはアホかもしれない。しかし、それはたぶんアホではないのだ。倫理的という視点では、間違いなく私の意見の方が正しい。しかし、多くの人は別に倫理的な判断を経て医療を受けたいわけではない。非倫理的であっても、とにかく治りたい、長生きしたいのである。医者も、とにかく直したいのである。倫理の問題を考えるときに、最も重要なことは、そもそも倫理的に考えないで判断するのが普通になっていることである。
代理母、脳死移植も、そういう視点で考えてみると、また違った面が見えてくる。倫理的に生きるということは、希望を叶えるということとは違う。希望を叶えるという点で言えば、移植を受けたいというのも、胃がんの手術を受けたくない、というのも、どちらも同じである。ただ、移植を受けたいという人に対しては、移植医がバックアップしてくれるが、胃がんの手術を受けたくないと言う人には、バックアップしてくれる医者がいない。そんな違いを倫理の問題にすり替えてはいけない。当事者以外の意見をどう採り入れるか、移植医は倫理について語るべき立場にないし、胃がんを手術する外科医も同じである。移植の時には、移植をしないという選択肢がつねにある。そこでは倫理的な問題は生じにくい。逆にただ胃がんの手術をするというときには、手術をしないという選択肢がはじめからない場合も多い。そういうところでこそ、倫理的な問題が発生する。
倫理的な問題は、倫理的な問題が存在すると認識されないところでこそ、恐ろしいのである。

一つの原理から始める

人は死ぬ、だから医療が必要である。
人は死ぬ、だから生きる
死なないのであれば生きるということ自体がないかもしれない。そんなことは少し考えればわかることだ。もともと生は死を含んでいる。一人の生は死を持って終わる。死が生に対立しているわけではない。生の一部をなすに過ぎない。あるいは生の最後を飾る重要な部分を占める。どちらにしろ、死を含んでこその生である。死がなければ、それは生ではない。別の呼び方をする必要がある。
不老不死とは自己矛盾である。老いるということがなければ若さということもない。死ということがなければ生もない。つまり不老不死ということ自体が存在し得ない幻である。
生は死で終わるという尺度以外ではかることはできない。生を死なないという尺度で測ることはできない。
それがたった一つの原理。それをはずしては、なにも始まらない。その原理からすべてが始まる。
もちろん死にたくないから生きる、と言えないこともない。しかし、それだって、死ぬという原理に基づくからこそそう思うのである。死ななければそうは思わない。もし不死が実現され、死ななくなると、もうだれもそんなことを思うことはない。死にたくないから生きるとは、まさに死ぬから生きる、ということにほかならない。
医者である自分は、とても生きる、という全体に向き合うことはできない。そこで、せめて、死ぬから医療がある、という原理をはずさないように、医者としての仕事を全うしたい。
これは一つの発見である。

2009年11月25日水曜日

沈まぬ太陽、牛丼屋

死ぬまず太陽はよい映画だ。CGがちゃちだとしても、牛丼屋のシーンだけでも十分見る価値がある。
会社で執拗な嫌がらせを受け続ける父。かつての組合の同僚であった役員から、情報を見せないと娘の結婚式になにが起こっても知らないぞ、と脅迫される。
その後、息子を訪ね、一緒に牛丼を食べる。決して弱音を吐かないおやじが、何か言いたげで、どこか息子に助けを求めているかのようで、でもそうは言わないのだけど、牛丼が運ばれると、何かにとりつかれたように牛丼をかき込む。それを見て息子も。弱音を吐くわけではないけれど、弱音をどうやっても見せてしまうおやじ。息子は、なにをするわけでもないが、それを何か見事に受け止めている。
思い出すだけでもなんだか胸がいっぱいになる。映画で泣いたりしたことはないんだけど、ちょっとやばかった。
息子に弱音をみせに来るおやじ。
何とも言いようのないシーン。
もうすでに弱音を吐きまくっている自分には、もうどうしようもないのだけれど。

極楽まくら落とし図

深沢七郎の小説。

積極的安楽死の話し。本当はそうでもないのだけどそう説明すると分かりやすい。しかし、そんな分かりやすい話ではないから、そう説明してはいけない。
研修医とともにこの小説を読む。最初はとても受け入れられない。しかし議論が進むうち徐々に賛成意見を言い出すやつが現れる。それでもかたくなに反対し続けるものもいる。
身寄りがない人ほど、死ぬまでがっちり医療を受けていたりする。病院はとにかくまくら落としするという発想がない。もちろん法律で禁じられており、本当にやったりすれば犯罪者になってしまう。しかし、緩徐なまくら落としならどうか。犯罪にならないような。
身近なつながりの深い家族がいれば、そのうちの誰かが、そろそろもういいのではと言い出したりする。緩徐なまくら落としである。しかし、これも病院では言い出しにくい。医者の権限の方があるかに大きいからだ。その結果、死を受け止めて、家族の責任において、むしろ積極的に緩徐なまくら落としを受け入れる患者はほとんどいなくなる。
もっと家族の力を使えば、医者だってこんな苦労せずにすむのに。
もちろん、小説のじいさんだって、医者が少し手助けをすれば、息子やワシにそれほど無理なお願いをしなくてもすんだかもしれない。
しかし、それが無理なお願いなのかどうか。医者が少し手助けということはなかなかに難しい。医師が入ったとたんに、医師がステークホルダーになってしまう。だから、医師を入れないように身内に無理なお願いをする。あるいはそれを無理なお願いとは思っていない。そういうものだ。無為に生きるのは恥ずかしいことである。無為に生きるというのともちがうだろう。無為でなくともそろそろ死ぬべきという時期がある。おりんばあさんは無為どころか、バリバリの現役のまま山へ行った。殺してもらうのが本望だ。捨てられるのが当然、それが正しい死に方。食い扶持がないような時代では、それこそが掟、今の世でいう法律だったりする。
それでは食い扶持があればそんなことはしない方がいいのかどうか。
食べ物が余る世の中。食べ過ぎて太る世の中。かつては全くその逆だったし、今でも世界にはそんな地域が五万とある。やせばかりの世の中と太った人ばかりの世の中と、どちらがどうなのか。
太った人が主流を占める世の中では、痩せがうらやましがられ、やせた人が主流の世では、太った人が羨望の的である。
食い扶持があるということ自体、どういう価値をおけばいいのか。あるのがいいのか、ないのがいいのか。そんなことすら、よくわからない。つまり、食い扶持がないために、まくら落としがある世の方がよほどいいかもしれない。
さらに、実は現代にもまくら落としは別の形で復活している。
移植医療とまくら落としは似ている。脳死はまくら落としそのものだ。脳死によって、一人死んでも、それで何人かが助かる。まくら落としも、それによって何人かが食い扶持を確保したり、重い介護から解放されたりする。これはまくら落とし以外の何者でもない。
なにも変わってはいないのだ。個体は滅んでも、生命はつながり続ける。それは、今も昔も、全く変わっていない。

2009年11月24日火曜日

高校教師

中学時代だったか、高校時代だったか、そんなことも定かでない。再放送だったのかどうでなかったのか、それもわからないのだが、「高校教師」という青春ドラマがあった。平日の夕方に放送していたように記憶している。教師役は加山雄三だったか。そのほかの出演者はほとんど記憶にないし、内容はといえば何一つ覚えている話がない。そんな状況でなぜ今頃「高校教師」か。
多分もともとドラマなんか見ていない。たまたまテレビがついていただけなのだ。そのたまたまついていたテレビから、流れてきた歌だけが、妙に印象に残っている。多分歌っているのは夏木マリ。繰り返しよみがえってくるサビのフレーズ。

「たった一度の青春に罪なきようにというけれど、春の嵐の......、何もしなかったと嘆くより、あーあ、過ち悔やむ方がまし」

途中が思い出せない。おぼえているところだってあやしい。このフレーズが聞きたくて、忘れてしまったこの歌全体が聞きたくて、CDを探してみるがアマゾンでは手に入らない。しかし、それ以上探す元気もなく、このうろ覚えの、一部は全く思い出せないフレーズだけが繰り返しよみがえる。
俺も確かに昔はこうだった。何かしでかして後悔なんてことはなかった。これをしていれば、こんなことをやっていれば、そういうことばかりが後悔であった。。それが今じゃどうだ。
しなかったことについては、仕方がなかったとあきらめ、もはや後悔することもない。それに比べて、あれをしなきゃよかった、これもやめとけばよかった、そんな後悔ばかり。
なんてこった。この変わりようはいったい何なのか。老化現象の一つか。そうであればまあ受け入れもできる。
体力を徐々に失い、髪の毛が知らないうちにずいぶんと減り、白髪が目立つようになり、脂性だった手がむしろかさかさに乾燥し、つばを付けないと紙がめくれない。それも嘆くことの一つではあるが、それはそれでいい感じがする出来事でもある。もうすぐ50歳、早く50代になりたい。そういう気分さえある。
しかし、この後悔のしようの変わり方については、どうにも自分で受け入れられない。やったことを後悔し、やらないことはしかたないとあきらめる。これじゃ年を経るごとに、後悔が増えるばかりである。
そういう後悔のしかたについてまた後悔する。未だしていない後悔について、悔いる、そんなエネルギーはもちろんもうないかもしれないが。
どうしたもんだ。

2009/11/26 00:22
youtubeで見つかった。サビの部分はこうだ。

「たった一度の青春に悔いなきようにというけれど、春の嵐の過ぎた後、なにもしなかったと嘆くより、あーあ、過ち悔やむ方がまし」

2009年11月21日土曜日

歩いても歩いても

沈まぬ太陽を見た。思い出したのはこの映画。

歩いても、歩いても


久しぶりに映画を見た。ある家族の物語。ある夫婦と子ども1人が、夫の兄の命日に集まる。主人公である弟は、ばつイチ、連れ子ありの女性と結婚、そのうえ失業中。医師である兄は、おぼれた子どもを助けて、自分は力尽きて死んでしまう。その日に、姉も、助けられた子どもも、みんな集まってくる。その実家で過ごす数日の出来事、そして、その数年後。死ぬということ、受け継ぐということ、家族の役割、そんなことを考えた。おそらく、誰もが少しは考えていることだ。

赤塚不二夫の葬式のときのタモリの弔辞を聞いて、この映画のいろいろな場面がフラッシュバックした。


一番印象に残ったのは、死んだ兄に助けられた生き残った子どもが大きくなって、命日に毎年呼ばれて、今年も、という場面。就職がなかなか決まらなくてなどと、気まずそうに近況を報告する。母親は、生き残った子ども(もう立派な大人になっているわけだが)に息子を投影させることができない。何でこんなできの悪いもののために息子が犠牲にならないといけないのか。しかし、大部分の登場人物や映画を見ている人は、むしろ助けられて生き残った子どもに自分を投影させる。死んだ兄と自分が同じ類の人間とは思うことができない。自分は生きるに値するのだろうか。生きるに値するのは死んでいく人たちのほうではないか、生き残っている私らこそ死んだほうがいいのではないだろうかと。


死んだウサギに感情をもてない弟の義理の息子。最後のシーンは、その息子が大きくなって新しい生まれた妹とともに、じいちゃん、ばあちゃんの墓参りに来る。彼はウサギのことを、あるいは身代わりになって死んだおじさんのこと、助けられて生き残った子どものことを、どう振り返るのだろう。


生き残ったものが生きるしかない。そう思えるのは、死んだ人からのメッセージがあるからだ。死んだ人からのメッセージというところが、タモリの弔辞を聞いていてつながったことなのだろう。死んだ赤塚不二夫からすれば、タモリですら、映画で生き残った太った子どものような存在に過ぎない。ただそこには死者からの大きなメッセージがある。だから生き続けることができる。タモリが生き続けるように、あの生き残った子どもも行き続ける。そして私も。



47歳の地図

今48歳になってしまったんだが、まあいいか。

47歳の地図

 射程の長い思考が求められている。しかし、変化は必ずしも連続ではない。不連続な歴史の延長としての未来。

紀元前、紀元後、というわけだが、紀元後も、次の時代、つまり紀元後の後に対して、前であるしかない。


 青春時代の懐かしい歌を聴きながら、自分自身が、もう、「夢」などという言葉からはすでに遠いことをはっきりと自覚する。眠っているときでさえも、ほとんど夢を見たりしない。作り笑いで疲れ果て、笑顔なんてものはもう忘れてしまった。希望は、笑顔を取り戻すことでなく、むしろ天変地異。そう言えば、「希望は戦争」という若者もいたっけ。自分自身も、案外それに近いかもしれない。ため息をつくのは、実現しない夢に対してではなくて、ここに実現している現実に対してである。夢が実現しないことに対して、もう何の感情もない。


 何を書きたいのか?


 仲間が死に。そして、師匠が。冥福を祈ることはできない。できることならば、ここにとどまって、見守って欲しい。


 47のしゃがれたブルースを聴きながら、夢を見なくなったわたしがやりきれないため息をついている。


大していいことあるわけじゃないだろ。ひとときの笑顔を疲れも知らず探し回ってる。ばか騒ぎしてる街角の俺たちのかたくなな心と黒い瞳には寂しい影が。けんかにナンパ、愚痴でもこぼせばみな同じさ。


 セーヌは流れ、私は残る、だったっけ? 流れるのは世の中で、私は変わらない、そんなふうに思っているかもしれないが、実は全く逆なのだ。患者さんのことを振り返るたびに、そのことが明確になる。セーヌは変わらず流れ続け、私は変わる。


 多くの問題は、自分のことがわかっていないということより、患者さんのことがわかっていないからうまく行かない。自分自身が問題になるようなレベルまで行っていないのだ。自分はどんな医者になったらいいのだろう。それはまだまだ先の話で、まずは患者さんがどんな患者さんか、それがわからないと話にならない。患者さんを固定して、自分を鍛錬していくのがトレーニングの近道なのだ。自分を固定して、流れる患者さんについていけるわけがない。患者は流れ、私は残る。最悪である。本当に当たり前のことなのだけれど。


 「人生は買い物である」と、今の世の中を喝破した作家がいる。深く同意する。それは研修の場においても当てはまる。「研修は買い物である」、なるほど。

 彼らは何を買いに来たのか。そんなふうにいうと怒るかもしれない。しかし本当に買いに来ていないかどうかよく考える必要がある。もちろん私自身も、夢や希望でなくて、本当は何かを買いに来たのではないかと、よくよく振り返ってみる必要がある。


西洋医学を進めてきた人たちは、同時に永遠の命を求めてきた人たちでもある。そういえば、キリスト教にとって永遠の命というのは大きな位置づけにある。西洋が医学が究極的に目指している不老不死と、案外近いのかもしれない。西洋合理主義、永遠の命、キリスト教、言ってみれば、西洋の、というより今の世界の歴史そのもの。資本主義社会の合理的生活態度の原点は、キリスト教的禁欲主義にある、といったのはマックスヴェーバーだ。しかし、ヴェバーはさらに言う。


「文化発展の末人たちに対して、次の言葉が真理となるのではなかろうか。『精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階までにすでに登りつめた、とうぬぼれるだろう』と」




幸せに、なろうと思い、生きている
そういうおれは、

女か虎か


 今日は小説を読もう。そんな研修医向けの勉強会。FictioneducationFictionEducationの二つをあわせた造語)、小説で学ぶ臨床医学、題して「女か虎か」。
 小説の内容は、ざっと以下の通り。

「半未開の王が統治する王国では、罪を犯した若者が王様の闘技場で裁かれる。闘技場には二つの扉があり、片方の扉には美女、もう片方には人食い虎。若者はどちらかの扉を選んで開ける。美女が出てくれば、めでたく結婚でき、無罪放免、逆に虎がでてくれば、食われて終わり。ある日、王女がある若者と愛し合っていることが王の知るところとなる。当然その若者は、例の裁判にかけられることになる。ただいつもと違うのは、闘技場には王女が、扉の中身を知って、闘技場で若者にどちらかの扉を指差してサインを送る。しかし、王女が指差した扉の中身がどちらか、それはわからない。王妃は右の扉を指した。若者はそれを見逃さなかった。若者は王女が指した右側の扉へと進む。さて、出てきたのは、女か虎か?」

 と、こんな小説の、要約でなく、全文を読んで、ただ研修医同士で議論する。それで臨床医学に関する深い学習ができるというセッションである。娘が高校の授業で読んで、面白かったと教えてくれた。読んでみてびっくりだ。これは、まさに日々医師が向き合っている問題そのものではないか。私自身の読みは、もう明らかだ。それ以外に読みようがない。ただそれは言わないで、まず研修医に聞いてみる。

「どちらが出てきたと思う?」
「そりゃ虎でしょう」
「虎だと思います」
「女かな」
「女に出てきてほしいけど、虎に違いない」
「虎に食われて、王女があとを追う。天国で一緒になるんだ」
「ばっかみたい」
「確かにばかだな」
「どちらかというと、虎が優性だな。それじゃあ、情報提供の有無、選択の有無という点で、普通の若者、王女と付き合っている若者、現代人、その4つがどんな立場にあるのか考えてみよう」
「意味がわかりません」
「わかるまで考えてね。なんでも口に出していってみよう。はい、隣同士ディスカッション」

 この話は、半未開というところがポイントだ。半未開の国では、どちらの扉にどちらがいるのか、何のヒントも与えられない。しかし、どちらかを選ぶことはできる。情報提供はないが選択はある。それが半未開な世の中の定義である。それに対し、未開な世界は描かれていないが、多分、王の一存で処刑されてしまうというような、情報も選択もない、というのが未開の世界であろう。
 そこで、王女と愛し合う若者はどうか。情報はある。王女がどちらかを指し示す。ただそれが虎なのか、女なのかはわからない。あいまいな情報である。それでは選択のほうはどうか。若者は、迷うことなく、王女が指し示した扉へ向かう。そこには一見選択はないように見える。しかし、若者は王女の指し示す方向にそむいて、逆の扉を選ぶこともできる。そう考えれば、若者は王女の指示通り進むことを「選んだ」ということもできる。微妙な選択である。
 それでは、現代人、われわれはどうか。単純に考えれば、情報もあり、選択もある。そういう世界だ。いい世の中になったもんだ。しかし、本当にそうか。情報は相変わらずあいまいである。医療の世界で考えてみる。例えば、5年生存率を15%改善します、という情報。どちらかを明確に指し示す王女からの情報に比べて、さらにあいまいになっている。選択はどうか。検診を受けさせ、がんを見つけておいて、放っておくという選択肢はすでにない。早期の胃がんです。手術しましょう。手術の危険はとても小さいものです。若者のほうが、選択の余地があるのかもしれない。
 さらに、ここでの議論で、決定的に欠けていることがある。関係性である。王女と若者のような関係性が、医師と患者の間にあるかどうか。そうであれば、情報も、選択も、もはやたいした問題ではないかもしれない。関係性によって、おのずと道は見えてくる。

 インフォームドコンセント、自己決定。なんと底の浅い言葉として利用されていることか。問題はインフォームドコンセント自体や、自己決定自体にあるのではない。医師と患者の関係性にある。関係が悪いところで、いかなるインフォームドコンセントも、自己決定も困難だ。一人決められる強者だけが生き延びていく。半未開を抜け出した、文明開化の落とし穴だ。
われわれの生きる世界は、いまだ半未開なのだ。役に立つような、立たないような情報、自分で決めているのか、決めていないのか微妙な選択。しかし、王女と愛し合う若者を支えるのは、情報でも、選択でもなく、王女との関係性なのではないだろうか。

2009年11月20日金曜日

孫からの手紙


 地域の診療所で研修中のレジデントと一緒に訪問診療に行く。

「いつまでもながいきしてください、たくやより」
孫、あるいはひ孫だろうか。文字を覚えたばかりと思われる小さな子どもからの手紙を見せる老人。
「あまり長生きしたら困るんだけどねえ。ばあちゃんがたくやより長生きしたらどうするんだろうね」

 そんな話を聞くと、もう医者の出る幕ではないなと思う。この老人は、医者の守備範囲にいる人ではない。実際の会話を想像してみる。

「ばあちゃんの一番悲しいことは何か知ってる?」
「うーん、わかんない」
「ばあちゃんが長生きして、ばあちゃん以外がみんな死んでしまうことだよ」
「たくやも?」
「そう、たくやも」
「たくや、死んじゃうの?」
「そう、たくやもいつか死んじゃうんだよ」
「死ぬのは怖い?」
「わかんない。ばあちゃんは?」
「ばあちゃんが怖いのは生き残ることだよ。死ぬのなんか全然怖くない」

 こんなことを想像していると、とんでもないことに考えが及ぶ。

「早く死んでください、丹谷起より」
「そうだよね、孫どころか、息子より長生きなんかしたら、たいへんだよね」

 実際にそんな手紙を書いたりしたらどうなるだろう。もし自分が孫からそんな手紙を受け取ったら、ぜひともこのように答えたい。しかし、現実はそんなふうには多分答えられない。答えたらとんでもないことになるだろう。

「俺に死ねというのか!」

だから多分言い方を変える。

「おばあちゃんが悲しまないように、ぼくも元気で生きるよ」

でも、要するにそれは、「おばあちゃん自身が悲しまないように、ぼくよりはやく死んでね」という意味でもある。それは言いすぎか。そういう意味が一部には含まれる。

 森繁久弥が亡くなった。もうずいぶん前に、ビートたけしが誰かの葬式のときに、そこに参列した森繁に言っていたコトバを思い出す。

「森繁、順番守れ!」

 長生きはよくない。そうはっきりと認識する。長生きよりも、順番を守ることのほうがはるかに重要だ。

「たくや、いつまでも長生きなんかできないんだよ。順番を守って死んでいくことが大事なんだ。おばあちゃんが死に、お父ちゃんやお母ちゃんが死に、そしてたくやが死ぬ。そういう順番であれば、何も怖いことはないんだよ」

 手紙をきっかけに白昼夢状態の私。在宅患者の老人が、そのように言ったような気がする。ひょっとしてこの人は、既に息子か娘を亡くしているんじゃないだろうか。そんなことを考える。
 この世に今まで生まれた人は何人なんだろう。その中で今生きている人は何人なのか。ひょっとしたらこれまでに死んだ人より、今生きている人のほうが多いかもしれない。そうだとすると、それは大変なことだと思う。この老人が、こんなふうに考えられるのは、多くの人の死を経験してきたからではないか。生きている人に対して、死んだ人の数が少ないということは、そうした経験が少ないということ。そして、それが今の世の中。

「また来週来ますから」

 研修医の声でわれに帰る。研修医に、この患者さんの子どもがどうしているのか、聞いてみようか。だめだ、まだわれに帰ってない。レジデントに同行していったい何してる。