今日は小説を読もう。そんな研修医向けの勉強会。Fictioneducation(FictionとEducationの二つをあわせた造語)、小説で学ぶ臨床医学、題して「女か虎か」。
小説の内容は、ざっと以下の通り。
「半未開の王が統治する王国では、罪を犯した若者が王様の闘技場で裁かれる。闘技場には二つの扉があり、片方の扉には美女、もう片方には人食い虎。若者はどちらかの扉を選んで開ける。美女が出てくれば、めでたく結婚でき、無罪放免、逆に虎がでてくれば、食われて終わり。ある日、王女がある若者と愛し合っていることが王の知るところとなる。当然その若者は、例の裁判にかけられることになる。ただいつもと違うのは、闘技場には王女が、扉の中身を知って、闘技場で若者にどちらかの扉を指差してサインを送る。しかし、王女が指差した扉の中身がどちらか、それはわからない。王妃は右の扉を指した。若者はそれを見逃さなかった。若者は王女が指した右側の扉へと進む。さて、出てきたのは、女か虎か?」
と、こんな小説の、要約でなく、全文を読んで、ただ研修医同士で議論する。それで臨床医学に関する深い学習ができるというセッションである。娘が高校の授業で読んで、面白かったと教えてくれた。読んでみてびっくりだ。これは、まさに日々医師が向き合っている問題そのものではないか。私自身の読みは、もう明らかだ。それ以外に読みようがない。ただそれは言わないで、まず研修医に聞いてみる。
「どちらが出てきたと思う?」
「そりゃ虎でしょう」
「虎だと思います」
「女かな」
「女に出てきてほしいけど、虎に違いない」
「虎に食われて、王女があとを追う。天国で一緒になるんだ」
「ばっかみたい」
「確かにばかだな」
「どちらかというと、虎が優性だな。それじゃあ、情報提供の有無、選択の有無という点で、普通の若者、王女と付き合っている若者、現代人、その4つがどんな立場にあるのか考えてみよう」
「意味がわかりません」
「わかるまで考えてね。なんでも口に出していってみよう。はい、隣同士ディスカッション」
この話は、半未開というところがポイントだ。半未開の国では、どちらの扉にどちらがいるのか、何のヒントも与えられない。しかし、どちらかを選ぶことはできる。情報提供はないが選択はある。それが半未開な世の中の定義である。それに対し、未開な世界は描かれていないが、多分、王の一存で処刑されてしまうというような、情報も選択もない、というのが未開の世界であろう。
そこで、王女と愛し合う若者はどうか。情報はある。王女がどちらかを指し示す。ただそれが虎なのか、女なのかはわからない。あいまいな情報である。それでは選択のほうはどうか。若者は、迷うことなく、王女が指し示した扉へ向かう。そこには一見選択はないように見える。しかし、若者は王女の指し示す方向にそむいて、逆の扉を選ぶこともできる。そう考えれば、若者は王女の指示通り進むことを「選んだ」ということもできる。微妙な選択である。
それでは、現代人、われわれはどうか。単純に考えれば、情報もあり、選択もある。そういう世界だ。いい世の中になったもんだ。しかし、本当にそうか。情報は相変わらずあいまいである。医療の世界で考えてみる。例えば、5年生存率を15%改善します、という情報。どちらかを明確に指し示す王女からの情報に比べて、さらにあいまいになっている。選択はどうか。検診を受けさせ、がんを見つけておいて、放っておくという選択肢はすでにない。早期の胃がんです。手術しましょう。手術の危険はとても小さいものです。若者のほうが、選択の余地があるのかもしれない。
さらに、ここでの議論で、決定的に欠けていることがある。関係性である。王女と若者のような関係性が、医師と患者の間にあるかどうか。そうであれば、情報も、選択も、もはやたいした問題ではないかもしれない。関係性によって、おのずと道は見えてくる。
インフォームドコンセント、自己決定。なんと底の浅い言葉として利用されていることか。問題はインフォームドコンセント自体や、自己決定自体にあるのではない。医師と患者の関係性にある。関係が悪いところで、いかなるインフォームドコンセントも、自己決定も困難だ。一人決められる強者だけが生き延びていく。半未開を抜け出した、文明開化の落とし穴だ。
われわれの生きる世界は、いまだ半未開なのだ。役に立つような、立たないような情報、自分で決めているのか、決めていないのか微妙な選択。しかし、王女と愛し合う若者を支えるのは、情報でも、選択でもなく、王女との関係性なのではないだろうか。
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