47歳の地図
射程の長い思考が求められている。しかし、変化は必ずしも連続ではない。不連続な歴史の延長としての未来。
紀元前、紀元後、というわけだが、紀元後も、次の時代、つまり紀元後の後に対して、前であるしかない。
青春時代の懐かしい歌を聴きながら、自分自身が、もう、「夢」などという言葉からはすでに遠いことをはっきりと自覚する。眠っているときでさえも、ほとんど夢を見たりしない。作り笑いで疲れ果て、笑顔なんてものはもう忘れてしまった。希望は、笑顔を取り戻すことでなく、むしろ天変地異。そう言えば、「希望は戦争」という若者もいたっけ。自分自身も、案外それに近いかもしれない。ため息をつくのは、実現しない夢に対してではなくて、ここに実現している現実に対してである。夢が実現しないことに対して、もう何の感情もない。
何を書きたいのか?
仲間が死に。そして、師匠が。冥福を祈ることはできない。できることならば、ここにとどまって、見守って欲しい。
47のしゃがれたブルースを聴きながら、夢を見なくなったわたしがやりきれないため息をついている。
大していいことあるわけじゃないだろ。ひとときの笑顔を疲れも知らず探し回ってる。ばか騒ぎしてる街角の俺たちのかたくなな心と黒い瞳には寂しい影が。けんかにナンパ、愚痴でもこぼせばみな同じさ。
セーヌは流れ、私は残る、だったっけ? 流れるのは世の中で、私は変わらない、そんなふうに思っているかもしれないが、実は全く逆なのだ。患者さんのことを振り返るたびに、そのことが明確になる。セーヌは変わらず流れ続け、私は変わる。
多くの問題は、自分のことがわかっていないということより、患者さんのことがわかっていないからうまく行かない。自分自身が問題になるようなレベルまで行っていないのだ。自分はどんな医者になったらいいのだろう。それはまだまだ先の話で、まずは患者さんがどんな患者さんか、それがわからないと話にならない。患者さんを固定して、自分を鍛錬していくのがトレーニングの近道なのだ。自分を固定して、流れる患者さんについていけるわけがない。患者は流れ、私は残る。最悪である。本当に当たり前のことなのだけれど。
「人生は買い物である」と、今の世の中を喝破した作家がいる。深く同意する。それは研修の場においても当てはまる。「研修は買い物である」、なるほど。
彼らは何を買いに来たのか。そんなふうにいうと怒るかもしれない。しかし本当に買いに来ていないかどうかよく考える必要がある。もちろん私自身も、夢や希望でなくて、本当は何かを買いに来たのではないかと、よくよく振り返ってみる必要がある。
西洋医学を進めてきた人たちは、同時に永遠の命を求めてきた人たちでもある。そういえば、キリスト教にとって永遠の命というのは大きな位置づけにある。西洋が医学が究極的に目指している不老不死と、案外近いのかもしれない。西洋合理主義、永遠の命、キリスト教、言ってみれば、西洋の、というより今の世界の歴史そのもの。資本主義社会の合理的生活態度の原点は、キリスト教的禁欲主義にある、といったのはマックスヴェーバーだ。しかし、ヴェバーはさらに言う。
「文化発展の末人たちに対して、次の言葉が真理となるのではなかろうか。『精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階までにすでに登りつめた、とうぬぼれるだろう』と」
幸せに、なろうと思い、生きている
そういうおれは、
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