歩いても、歩いても
久しぶりに映画を見た。ある家族の物語。ある夫婦と子ども1人が、夫の兄の命日に集まる。主人公である弟は、ばつイチ、連れ子ありの女性と結婚、そのうえ失業中。医師である兄は、おぼれた子どもを助けて、自分は力尽きて死んでしまう。その日に、姉も、助けられた子どもも、みんな集まってくる。その実家で過ごす数日の出来事、そして、その数年後。死ぬということ、受け継ぐということ、家族の役割、そんなことを考えた。おそらく、誰もが少しは考えていることだ。
赤塚不二夫の葬式のときのタモリの弔辞を聞いて、この映画のいろいろな場面がフラッシュバックした。
一番印象に残ったのは、死んだ兄に助けられた生き残った子どもが大きくなって、命日に毎年呼ばれて、今年も、という場面。就職がなかなか決まらなくてなどと、気まずそうに近況を報告する。母親は、生き残った子ども(もう立派な大人になっているわけだが)に息子を投影させることができない。何でこんなできの悪いもののために息子が犠牲にならないといけないのか。しかし、大部分の登場人物や映画を見ている人は、むしろ助けられて生き残った子どもに自分を投影させる。死んだ兄と自分が同じ類の人間とは思うことができない。自分は生きるに値するのだろうか。生きるに値するのは死んでいく人たちのほうではないか、生き残っている私らこそ死んだほうがいいのではないだろうかと。
死んだウサギに感情をもてない弟の義理の息子。最後のシーンは、その息子が大きくなって新しい生まれた妹とともに、じいちゃん、ばあちゃんの墓参りに来る。彼はウサギのことを、あるいは身代わりになって死んだおじさんのこと、助けられて生き残った子どものことを、どう振り返るのだろう。
生き残ったものが生きるしかない。そう思えるのは、死んだ人からのメッセージがあるからだ。死んだ人からのメッセージというところが、タモリの弔辞を聞いていてつながったことなのだろう。死んだ赤塚不二夫からすれば、タモリですら、映画で生き残った太った子どものような存在に過ぎない。ただそこには死者からの大きなメッセージがある。だから生き続けることができる。タモリが生き続けるように、あの生き残った子どもも行き続ける。そして私も。
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