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2011年7月13日水曜日

根拠の本質

根拠というものがどういうものか、ちょっとわかった気がする。

たとえば、机から物が落下するということ。こういうことはふつう根拠を必要としない。とにかくそうなるわけだから。もし根拠のようなものがあるとしたら、古典力学というようなことなのかもしれないが、それは根拠というより理論である。

そこで理論と事実の関係を考えてみるに、当然のことながら、事実より理論のほうが守備範囲は狭い。理論は事実の一部を説明するに過ぎない。ただ常に「ものが落ちる」という事実がゆるぎないので、理論が事実を打ち負かすようなことはない。理論と事実の不整合は、理論を作り変えることで対応される。

それに対して、「治療が有効である」というようなことはどうだろうか。「ものが落ちる」というのとどこが違うのか。「有効」というのは実はきわめて曖昧なもので、「落ちる」というのとはかなり違う。この「有効」のあいまいさが、何をもたらすのか、ものが落ちるときと比べて考えてみる。

「有効」ということは、対応する事実があいまいであるがために、理論そのものが事実と重なってしまうような勘違いが起きる。また理論と事実に整合性がない場合には、理論に合わせて事実の解釈のほうを変えてしまうというようなことも起こる。

たとえば最近のネタで、いかにもという例がある。血糖の集中的な治療が死亡を増やすというような結果を示した場合、血糖を下げれば死亡が減るのは自明の事実であって、増えたなどというのは、研究方法や対象に問題があって、事実が捻じ曲げられているのだと、そんな説明を何度となく聞いた。

そんなわけはないだろう。事実は「死亡が増えた」ということである。その事実を受け入れ、「死亡が減る」という理論こそ見直されるべきだ。もちろん、捻じ曲げられた事実の可能性もあるので、少なくともやはり事実は事実として理論を見直すような方向の思考を付け加えるべきではないか。そうでなければ研究の体系そのものが怪しくなる。しかしそのような発言をする人はほとんどいない。

根拠は理論を証明するために要求される。厳然たる事実があれば理論は必要ないかもしれない。しかし対応する事実があいまいだからこそ、理論のために根拠を要求される。これが根拠の本質だ。

人間が生きるのは、机からものが落ちるようなものではない。一枚の木の葉がひらひらと舞い落ちるようなものだ。本当はもっと複雑で訳が分からない。

そんな人の一生に対して、医療が有効なんてことを示すのは、事実で示せるはずもなく、理論や、事実に見せかけた理論的な解釈で示すほかはない。その理論を補強するためにこそ根拠を必要としている。その構造が壊れない限り、臨床研究結果はどこまでも悪用(それは言い過ぎかもしれないが、少なくとも治療効果を水増しするように使われるかもしれないという意味で)され続けるに違いない。

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