ここで働いています

2010年11月29日月曜日

ノロがはやっているらしい

 
ノロがはやっているらしい。テレビのニュースでやっていた。

「ノロウィルスには特効薬がないため、安静にして、よくなるのを待つ以外に手がありません」とかなんとか。

放っておけば治るんだから。特効薬なんかあまり要らないんだけど。
こういうばかばかしい言葉遣いでニュースを書くやつに、減点100.
 

2010年11月25日木曜日

極楽まくらおとし図2

 
今日は研修医とナースと極楽まくらおとし図を読んだ。
もう何回読んだだろう。

法律で守られた医者が行う積極的安楽死と、家族が法律に背いて行う積極的安楽死とどちらか好ましいか、と問いかけたら、意外なことに、家族が行う方がいいという意見が優勢だった。これは何か恐るべきことのような気もするが、とてもいいことのような気もする。

これは単なる小説の力なのか。

小説のラストシーンは確かにとても美しい光景に思われる。

それでも、自分で食事を取ることを拒否すれば死ねるんだから、他人に殺してくれと頼むようなことはすべきでないという意見も出る。

確かに家族は、重い荷物を背負う。積極的な安楽死なんて無理をせずに、放置すればいいじゃないか。そうすればそんな重い荷物を背負わずに済む。

しかし、放置ではじいさんが救えない、積極的にかかわることでしかじいさんは救われない、そう思ったのか。積極的安楽死といっても、それはじいさんを助けようという結果ではないのか。
助けるというのはもちろん命を助けるという意味ではない。まさにじいさんを助けるという意味だ。

わけがわからないのは今日も同じ。
しかし、わけがわからないことだけが持続していく、次につながっていく。
 

笛吹川


笛吹川
 
深沢七郎、武田三代と農民六代の物語。
生まれて死んで生まれて死んで。

当たり前のことだけど、甲州人だからといって武田信玄を支持しているわけではない。

武田三代に仕えたものはすべて死に、そうでないものが生き残る。

思い出したのは井上陽水の「ミスコンテスト」

「何も決めてない掃除夫が働く」

コンテストの参加者より、何も決めてない掃除夫の人生に興味がある。

武田三代よりも農民六代に関心がある。
 

2010年11月23日火曜日

エビデンスの手触り

 
エビデンスの表面は何かつるつるぴかぴかなものだと思っている人が多い。

「有効な治療」は、劇的な効果を生む、つるつるぴかぴかの薬によってもたらされる。

そんなわけない。

エビデンスの表面は、ごつごつで、とげとげで、でこぼこなのだ。この手触りがわからない限り、エビデンスは誤解され続ける。

週末は、「患者と医者で話は通じているか」なんて題で話してくる。

キーワードは「エビデンスの手触り」だ。
 

効果には個人差があります

 
yahooのページのダイエット広告にも小さな文字で書かれていた。

「効果には個人差があります」

それを見てふと思ったこと。

健康食品やダイエット食品にお決まりの文句。効かなかった時の言い訳のために、入れているわけで、効果が大したことないとか、はっきりしたものではないといっているようなものである。しかしこの文言は、医学的に有効であるとされている多くの医療にも当てはまる。

降圧薬のPTPシートのどこかにも、やはりこう入れるべきではないだろうか。

「効果には個人差があり、それほど血圧が下がらない場合もあり、血圧が下がったとしても脳卒中になる場合があります」

えらいことじゃ。でも実際それは多くの場面で正しい表現なのだ。ダイエット広告は正しい。そして、それは多くの医者が行っている治療についても正しい。
 
 

2010年11月21日日曜日

明日に延ばせることを今日やるな

 
今日できることを明日に延ばすな、なんていうのだけれど、とりあえず明日が来る可能性が高いので、確率の高い方に賭けて、明日に延ばす。ただ確率は高いといっても、明日が来る可能性は徐々に低くなっているのだが、むしろ明日に延ばすことが多くなるのはなぜか。

実は確率が高い方に賭けているわけではなく、希望的観測に賭けているだけかもしれない。

しかし、そういう説明をしてみてもしっくりこない。

そもそもできることとは何だろうか。今日一日を振り返って、今日できたことがある。出来ないこともある。今日できたことができたし、今日できなかったことはできなかった。

始める前にできるかできないかなんてわかりようがないので、1日が終わったところで、初めてできたこと、できなかったことがわかる。できなかったことがあるときに、どうしてできなかったのだろうと思うより、やり残したことがあるので、また明日頑張れるかもしれない、そんなふうに思うことで、。

そしてその先にあるのは、明日がないならないで、またそれも受け入れることができるかどうか。

ただ、そんなことは今日できるわけもなく、だからそういう明日を受け入れることができるようになろうと、また明日を待つことができるのかもしれない。
 

2010年11月16日火曜日

フィギィアスケート

 
フィギィアスケートがたまたまついているテレビから流れている。
みんな転ぶ。ちょっと転びすぎだと思う。1位も転んで、2位も転んで。
個々の技も大事だけどやっぱり全体が重要だ、と思う。
しかし、全体が大事だというなら、転んだっていいじゃないかという気もする。
これは個々の技の問題ではなく、競争ということが問題なのかもしれない。

競技というのはなんだか少しいやだな。
人生もなんだか競技のようになって、ずいぶんつまらなくなっている。

贅沢競争、健康競争、長生き競争。

なんて書いていたら、エキシビション。
こっちの方が全然いいじゃんか。

もう競争はやめよう。人生はエキシビションだ。
 

2010年11月7日日曜日

犬は素晴らしい

 
尖閣ビデオの流出で世の中大変なことになっている。国というのは大変だ。と書いて、会社も大変で、家庭も大変で、夫婦も大変、ということを考えると、まあ大したことではないなと思う。

実はうちの家族も先週大変だった。

先週のことである。10年一緒に暮らした家族の一員が夜中に家出をして、3日後に警察署に保護されるという事件が起きた。こっちはもうパニックで、必死に探し回ったのだが、何の手がかりもない。ほとんどあきらめかけていたところ、警察署からお宅の家族を無事保護したとの連絡あり、一件落着した。

3日間をどう過ごしたのか、さっぱりわからないが、大変なことがあったに違いない。しかしそんなことについて、一言も言わないし、おくびにも出さない。なんと強靭な生き方。

犬を家族に持ってよかった。

同じ家族の一員といっても、人間と犬では全然違う。犬はまるで何もなかったかのように日常に復帰している。3日間の大冒険について全く話すこともない。それでいてあっという間に以前と全く変わりない暮らしに戻っている。これは素晴らしい能力ではないか。

チリの落盤事故の救出劇も、人間世界の範囲では素晴らしいことにちがいないが、犬の世界を含めれば、何でもないことなのかもしれない。

人間は駄目だな。最も出来そこなった生き物。だから、よく勉強し、よく考え、よく生きなければいけない。でも犬のように生きるというのも一つの選択肢かもしれない。そんなことが可能かどうかよくわからんが。
 

2010年11月4日木曜日

甲州子守唄

 
深沢七郎の小説。図書館で借りたりしなければなかなか読めないかもしれない。5年ほど前か、神保町をぶらぶらしていて、全集の古本を衝動買い。なにしろ深沢七郎の小説やエッセイは絶版ばかり。文庫化も楢山節考くらいか。とにかく読めない状況で、店頭に積まれた全集を見て、どうしてもほしくなってしまったのだ。

しかし、なかなか読む気になれなくて、読む時間もなく、ときどき寝転がっては、短編とエッセイを読むくらい。長編には手が出なかった。

それで、今年の休みにようやく読んだ長編小説のひとつ。

振り返り、なんてことを重視して日ごろの仕事に取り組んでいたが、そこへ一撃。ある意味振り返らない人たちの物語。

出稼ぎに行ったアメリカでの仕事について一切口を閉ざす主人公。殺人犯を見て見ぬふりをする、主人公家族。家族が全員空襲で死んで一人残されても、どうということなく米を売りに来るじいさん。いつの間にか闇屋になる娘。

物語の最後へ向けて、サッカリンにうどん粉を混ぜて売る主人公。金のトラブルばかりの息子に金にはしっかりしているとうそをいって仕事を紹介してもらう主人公である父。

ラストは、主人公の母が、サッカリンにうどん粉を混ぜ、孫に嘘八百の手紙を持たせてやる息子をみて、こういうのだ。

<いつまでも(いい人間で終わってしまうことなんか出来んさ)とオカアは覚悟を決めた。いつまで続くかわからない商売だから早く稼いでしまわなければ困るのである。悪いことをするようだが(いいさ、恥をかいても仕方ねえさ)とオカアは自分に言い聞かすようにひとりごとを言った。>

表題の子守唄というのが何を指すのか。なんとなくわかる。

生きるためには振り返りだけでなく子守唄が必要だ。学ぶためには振り返る必要があるかもしれないが、生きるためには振り返らないことが重要かもしれない。当然、学ぶことは生きることの一部にすぎない。

振り返り、振り返り、もっと良くするためには、という自分に対して、そんなに振り返らなくても、という思わぬ方向からの一撃。しかし、それを一撃、と表現すること自体が自分自身の問題で、その一撃を、「子守唄」だと思えたところで、「何だ、自分にとっての小説はすべて子守唄だったのだ」、そう腑に落ちた次第。