2010年11月4日木曜日
甲州子守唄
深沢七郎の小説。図書館で借りたりしなければなかなか読めないかもしれない。5年ほど前か、神保町をぶらぶらしていて、全集の古本を衝動買い。なにしろ深沢七郎の小説やエッセイは絶版ばかり。文庫化も楢山節考くらいか。とにかく読めない状況で、店頭に積まれた全集を見て、どうしてもほしくなってしまったのだ。
しかし、なかなか読む気になれなくて、読む時間もなく、ときどき寝転がっては、短編とエッセイを読むくらい。長編には手が出なかった。
それで、今年の休みにようやく読んだ長編小説のひとつ。
振り返り、なんてことを重視して日ごろの仕事に取り組んでいたが、そこへ一撃。ある意味振り返らない人たちの物語。
出稼ぎに行ったアメリカでの仕事について一切口を閉ざす主人公。殺人犯を見て見ぬふりをする、主人公家族。家族が全員空襲で死んで一人残されても、どうということなく米を売りに来るじいさん。いつの間にか闇屋になる娘。
物語の最後へ向けて、サッカリンにうどん粉を混ぜて売る主人公。金のトラブルばかりの息子に金にはしっかりしているとうそをいって仕事を紹介してもらう主人公である父。
ラストは、主人公の母が、サッカリンにうどん粉を混ぜ、孫に嘘八百の手紙を持たせてやる息子をみて、こういうのだ。
<いつまでも(いい人間で終わってしまうことなんか出来んさ)とオカアは覚悟を決めた。いつまで続くかわからない商売だから早く稼いでしまわなければ困るのである。悪いことをするようだが(いいさ、恥をかいても仕方ねえさ)とオカアは自分に言い聞かすようにひとりごとを言った。>
表題の子守唄というのが何を指すのか。なんとなくわかる。
生きるためには振り返りだけでなく子守唄が必要だ。学ぶためには振り返る必要があるかもしれないが、生きるためには振り返らないことが重要かもしれない。当然、学ぶことは生きることの一部にすぎない。
振り返り、振り返り、もっと良くするためには、という自分に対して、そんなに振り返らなくても、という思わぬ方向からの一撃。しかし、それを一撃、と表現すること自体が自分自身の問題で、その一撃を、「子守唄」だと思えたところで、「何だ、自分にとっての小説はすべて子守唄だったのだ」、そう腑に落ちた次第。
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