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2009年12月17日木曜日

ご褒美

研修医がなかなか勉強できないと嘆く。



それでは、なかなか勉強できないなかで、頑張れるというのはどんなときか。そういうときにはどうしてがんばるのか。



それはその先に何か得られるものが待っているから。平たくいえばご褒美が待っているから、がんばる。日々外来で使っている行動科学の基盤にもそういう考えがある。外来なんていわなくても、自分の子供に対してだって、これをがんばったらあれをかってやる、なんてやったことがある。自分自身が子供の頃だって、そういうことがあったと思う。



こんな時、ご褒美というのは何かに対して与えられるものと考えている。今は息子が浪人中であるが、勉強した結果、ご褒美として合格がある。合格のご褒美として、合格祝いをもらう。そんなことだ。



夢は必ず叶う、そんなわけはないが、これも努力のご褒美としての夢の実現ということだろう。



それに対して、そんなにがんばらなくても、という意見もある。そうした人たちは、ご褒美なんかいらないのか、あるいはご褒美がなくても生きていけるのか。



自分自身もご褒美ということについて考えてみる。自分自身としては、がんばった結果ご褒美をもらうというのは、なんだか恥ずかしいようなことに思われる。少なくともいい大人がやることではない。といいつつ禁煙を勧める患者などで、これに成功したら妻にご褒美がもらえるよう約束してもらいなさいなどというのであるが。患者を子供扱いしている気がする。子供扱いしてでもたばこをやめた方がいいということか。禁煙なんてそれほどのことでもないような気もする。何かいいことがあるからがんばるというのは基本的にはスケベなことである。ご褒美はすべてスケベ心に繋がる。そんなご褒美はいい大人がもらうものではない。



それでは何かに対して与えられるという以外のご褒美とはどんなものか。スケベでないご褒美とは。交換条件ではないご褒美。



たとえば勉強。交換条件としての褒美がなければしない勉強というのはスケベな勉強である。スケベでない勉強とは、ご褒美を必要としない勉強である。しかし、実際そういう勉強をいつもしているのである。むしろそういう行為の方が普通である。勉強というとわかりにくいが、たとえば小説を読むということ。小説を読んでご褒美がもらえるとしてもそんな小説の読み方は長続きしないし、そういうご褒美のために小説を読む人は、いずれ小説なんか読まなくなる。しかしみんな小説を読む。それはなぜか。小説を読むこと自体がご褒美だからだ。

つまり、スケベでない勉強とは勉強そのものがご褒美であるような勉強のことである。読み始めたら止まらないような小説を読むようにやり始めたら止まらないような勉強をする。そんな勉強ができれば、勉強そのものがご褒美になる。そしてそういうことをやるときにはさしてがんばる必要はない。



というわけで、研修医にも、患者にも、何かの結果ご褒美をあげるなんてことは今後一切しないことを誓う。



ご褒美がなくても、がんばらなくても、できるようなことが重要なのだ。たぶん。

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