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2009年12月17日木曜日

雨乞いと医療

研修医が誕生日を祝ってくれた。うれしい。こんなうれしいことはない。いろいろな話をした。たとえば新興宗教。高山で美術館に入ったら、そこが真光教の本山だった。怖い。そんな話し。そこで唐突に、信仰を持たないものの祈り。大江健三郎が光君の言葉に気がついたきっかけについて。奇跡は起こる。怒ることが奇跡である。祈りとは起こりうることに対するものである。起こりうることに対して祈る。それが進行。起こり得ないことを祈ってはいけない。しかし祈ることができることはすべて起こりうることだ。ただ自分の身に起こらないから祈るのだ。どこかでは起こるが自分には起こらない。だからこそ祈る。


アウトカムとは何か。実はよくわからないもの。行き先が明確に見えているのはアウトカムではない。もっと大きなものがアウトカムである。どこへ行き着くかはわからないけど、ともかくどこかへ向けて進んでいく。それ以外にやりようがない。ただもう少し先を見ればアウトカムは明確となる。死ぬ、そういうことである。死ぬというアウトカムに比べれば、どんな明確なアウトカムを立てようとも、そんなものは陽炎のようなものに過ぎないとわかる。

いかに生きるかといかに死ぬかの間に境目などない。死ぬまでどう生きるかと言っても、どう死ぬかと言っても同じこと。どう生きる、どう死ぬ、問題はプロセスである。アウトカムではなくて。

総合とはどういうことか。個別の要素の合計が全体ではない。広く深く掘る必要がある。各要素の深みより、全体の深みの方が遙かに深いのだ。浅く掘っていて、総合が見えてくることなどあり得ない。



雨乞いと医療の相同性。雨を降らすために雨乞いをするのではない。雨が降らないから雨乞いをする。死なないように医療があるのではない。死ぬからこそ医療があるのだ。

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