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2010年8月14日土曜日

最後の親鸞2

 
≪もし、自力と「知」によって他者を愛しみ、他者の困難や飢餓をたすけ、他者の悲嘆を一緒に悲しもうとかんがえるかぎり、それは現世的な制約のために中途半端におわるほかない。たれも、完全に成遂することはできないからだ。これは諦めとして語られているのではなく、実践的な帰結として云われている。そうだとすれば、この制約を超える救済の道は、現世的な<はからい>とおさらばして浄土を選び、仏に成って、ひとたびは現世的な制約の<彼岸>へ超出して、そこから逆に<此岸>へ還って自在に人々をたすけ益するよりほか道がない。そのためには念仏をとなえ、いそぎ成仏して、現世的なものの<彼岸>へ行くことを考えるべきである。それこそが、最後まで衆生の慈悲をつらぬき通す透徹した道であるとー。≫

と抜き書きだけにしようと思ったが、自分なりに少し整理ができた。

どこまでも現世的なはからいを期待できる、あるいは浄土なんかなくたって大丈夫というのは、すでに救われている。善人なおもて往生す、ということか。

現世での解決が不可能となっても、生きることが苦痛でしかないところへ追いつめられても、浄土を求めずに生きることが可能かどうか。

人為に頼るか、自然にまかせるか。苦しみしかないような現世で、なおかつ自然にまかせるといえるかどうか。煩悩も自然の一つで、浄土もいらないといえるかどうか。念仏も不要といえるかどうか。

そこで、念仏を唱えるかどうかも、「面々の御計なり」という親鸞。

絶対他力。

念仏を唱えればいいのだという中には、どうやっても「自力」が混入する。

絶対他力の中で、念仏を唱えるとはどういうことか。

親鸞の≪吐息のように付け加えられている言葉≫に耳をかたむけるしかない。

親鸞は、<信心>を≪時間的連鎖≫としてとらえているという。

結局整理はできない。

因果モデルから構造モデルへ。

将棋のルールから羽生のルールへ、ここでも同じ問題が取り扱われていると思う。
 

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