ここで働いています

2011年1月23日日曜日

人生は苦しんで生きる値打ちがある

 
坊主バーというのがあるらしい。ぜひ行ってみたい。
酒飲めないんだけど大丈夫かな。

坊主バーのカウンターに座るなり、
「人生はつらいなー」
とかなんとか言ってみたい。

かぜをひいたり、下痢をしたり、頭痛がしたり、血圧が上がったり、糖尿になったりして医療機関を訪れる人も、ある意味つらくなった人たちだ。
そういう人たちに、話聞いて、診察して、検査して、薬出して、なんてことをしているのだけど、結局のところ、「かぜってつらいよねー」とかいうことと向き合っているのだ。

そこで思い出したこと。

「人生は苦しんで生きる値打ちがある」というアラゴンの詩がある。高校の同級生に大学生時代に教えてもらった。詩の中身はさておき、この題名だけは明確に記憶にとどまっている。
たびたびこのフレーズがフラッシュバックする。

なんでそんなことを思い出したのか。今日はなぜ思い出したのか思い当たることがある。
私が坊主バーのカウンターにいたとしたら、こう答えたいのだ。

「人生は苦しんで生きる値打ちがある」
 
書いてみるとなんだかなあ、という感じだが。

2011年1月22日土曜日

なんとなくやってきたこと

 
いろいろなことがあったけど、なんとなく日々やってきたことが、形になりつつある。
結局のところ、基盤となるのは何となくやっていることだ。

なんとなく、というのは、つかみがたい、あいまいな、という感じでもある。

これを頑張ったとか、あれをやったとかいうのは、過ぎてみると案外どうということはない。
それよりも、なんとなくやってきた、いろいろなことを含む全部が、今につながっている。
明確な何かをやろうとして何かができるわけじゃなく、あいまいになんとなくやってきたものが何か確かな何かを生み出す。

食べる、寝る、と言えば当たり前だけど、なんとなくやってきたうちに形づくくられた基盤はその延長上にあるようなことだ。

目標が重要、というけど、おそらくそれも嘘だ。
目標を見失って、初めて何かが始まった。
その何かを目標と呼んでいいけれども、それはこれから先にあるというより、足元がはっきりして初めて明らかになったもののような気がする。

だから、目標というより基盤。なんとなく過ぎた日々が基盤となって、というのが一番しっくりくる。

自分がどうであったかというより、自分がたどってきたところがどんなだったか。

自分自身の基盤は、自分の中にあるわけでなく、自分自身が立つ、その足の下にある。
そう言えばそれもまた当たり前のことなんだけど。

毎日空回りしてきたような気がするけど、その空回りは、案外いいのだ、たぶん。
こういうものを作ろうとして、それができたというのもいいのだが、気がついたらなんか出来てる。そういうのがいい。

空回りを恐れず、目標を見失っても、気がつかない何かは持続していて、そのうちたいがい何かになっている。

形になりつつある何かに、しっかりした形を与えたい。
 

2011年1月15日土曜日

雨乞いと医療

 
雨乞いと医療を同じものとして考えてみると、医療の可能性が見えてくる。

雨が降るかどうかはわからないが、とにかく踊り続ける。
病気が治るかどうかわからないが、とにかく医療を受ける。

現実はなかなかそうはいかず、治ると信じて医療を受ける。ここに無理がある。
常に治るわけじゃないからだ。

だから、雨乞いのように、治るかどうかわからないけど、医療を受けてみる、というような気持ちになれれば、多くの問題が解決できるのではないか。

そんな話をしてみました。
どんなふうに伝わったのか、よくわからないですが。
 

複雑系

 
中田力著、穆如清風を読んだ。
帯がいきなりすごい。

「医師は犬にならなければいけない」

その通りだと思う。
電車の中で一気に読んだ。というか止まらない。

この本を読んで、生きることのイメージがひらめいた。

生きるとは、最も単純化すれば、「一枚の紙が、ひらひらと舞いながら、地面に落ちる」というようなものではないか。
一枚の紙がひらひらと舞う様子は、線形モデルでは予測不可能で、一種の複雑系だ。しかし、いつか地面に着地するというのに例外はない。

生きることは、一枚の紙で、紙飛行機を折って飛ばしたら、どこまでも飛び続けたというものではない。
 

2011年1月13日木曜日

すでにヒポクラテスではない

 
「もはやヒポクラテスではいられない」というのがtwitterで始まった。「私は」という書き出しから始めて、ヒポクラテスではいられない状況で、医療者として、何か宣言するという試み。

K立病院機構のB氏の企画だ。今までいろいろ一緒に仕事もしたし、注目してきた医者の一人だが、今回のこの快挙はすごい。いずれ、ながながとこの企画について書きたい。今日はとりあえず、すごい、とだけ言っておくことにする。

企画に乗って呟き始めて、自分の中で何かがはじけた。

何がはじけたのか、まだ見当もつかないが、この宣言が、1000年、2000年後に、ヒポクラテスの誓い以上に、何かをもたらすかもしれない、そんなことを思うほど、自分にはインパクトがあった。

しばらく宣言し続けたい。

http://www.ishisengen.net/
 
 

2011年1月4日火曜日

なんとなくわかったこと:ディアドクター再び、三度

 
たまたま戦後についての本を読んでいて、ディアドクターがまたよみがえった。
以下のうちあなたがなりたい者はどれか?

特攻隊員として戦死
特攻隊員として生き残り
一般軍人として戦死
一般軍人として生き残り
一般市民として死亡
一般市民として生き残り

何の話だかわからないかもしれない。私もよくわからない。
特攻隊員として戦死、今で言うならモーレツ社員(今で言うならというには言葉古すぎだが、代わりの言葉が見つからない)で過労死、というところか。
社長が天皇で、社長万歳と叫べればそれもまたいい人生か。社長万歳といえなければいい人生とはいえないが、社長を無理やりにでも信じられれば、1つの解決の道ではある。

それに対して、生き残りはどれもつらい。天皇を信じようが信じまいが。

ディアドクターという映画のいろいろな場面が、いまだに何かのきっかけでよみがえるが、この映画は、生き残った人たちの物語だということがなんとなくわかった。

本物が全部死んでしまった世界。
あるいは本物が生まれてこない世界、といったほうが正確か。

そしてそのあとの生き残った者だけの世界。
本物のいない世界。
そして、そういう世界こそ、今生きている世界。

本物になるかどうかは、死んだあとのこと。
死んで本物になった人は、生き残った者に、おまえはにせものではないかと問いかける
死んで本物になった人を、生きている人が超えることは出来ない

なんとなくわかったこと、そんなこと。
 
 

2011年1月3日月曜日

豊かな時代の終わり

 
今年も初詣には行かなかった。お願いをしている場合ではないというのは、すでに明確に認識しているつもりだ。神や仏にお願いすることだけはもうやめよう。初詣に行ったりなんかすると、間違ってお願いしたいするといけないので、初詣は行かないことに決めた。

お願いはやめて、何をするか。何もしないというのがいいのかもしれないが、今年はちょっと決意を語ってみよう。
決意を語るなら、自宅のソファーに転がったままでも十分だ。決意を伝えたいのは、神様や仏様に対してではない。伝えたいのは生身の人間に対してだ。
しかし、それが昔は大変だった。それが、今はインターネットという媒体で、寝転がったまま決意を伝えることができる。

そこで、今年の決意。

豊かな時代が続くことを祈っても、そんなことはただの祈りにすぎない。
はっきり言っておこう。豊かな時代は終わりつつある。もう終わっているのかもしれない。

世の中を破壊するのは戦争だけではない。戦争もないのに、世の中が破壊されつつある。それも確かなことだ。破壊と創造の繰り返し、戦争がなくたって、それは変わらない。

豊かな時代は続かない、ということはすでに明らかだが、あまり誰もそれを認めようとしない。
持続可能な社会を目指すとか言っているが、その話題が環境問題、特に温暖化の問題だったりする。温暖化など、100年200年後には、「何だ、また気温は下がってるじゃないか」という時期が来て、事実がそのウソを証明するだろう。まあそういう意味では、温暖化の問題も豊かな時代の持続を願う祈りの一つの形態だ。

豊かな生活を保とうとして、あるいは向上させようとして失ったものは何か。豊かさが終わるとは思わないが、豊かさの増加が、それによって失われるものの増加を下回る、というようなことが起きている。

一例を出すなら、たとえば医療。血圧の薬を得て、得たものより、失ったものの方が多いのではないか、コレステロールの薬を得て、と言えばもっとわかりやすい話だ。

豊かなだけではない、貧しさを込みにした医療、そういう方向性。

豊かさを捨てる。それが今年の決意。自分の仕事を、自分自身の生活維持、向上の中で考えるようなことはもうやめよう。



そんなことができるかどうかわからないけど、そういう決意をして、この1年にのぞみたい。