ここで働いています

2009年12月29日火曜日

EBMによる振り返り

EBMのステップ5を中心にしたワークショップを初めて行った。自分としては臨床研究にどうつなげるかというネタとして作ったのであるが、実際やってみると、自分自身の診療の振り返りの時こそEBMが役に立つという部分が明らかになった。

EBMは前向きに使うより、後ろ向きに使うことから始めるとよい。診療の監査にこそ威力を発揮する。新しい発見である。実際そうやっていたわけだが、人に伝えるときにはそのように説明できていなかった。セッションを進めながら、明確になった。今困っている患者で、今から勉強を始めて、現時点で決断するのはなかなか難しい。これまで通りにひとまずやっておいて、後から振り返ってみる方が現実的なやり方である。そういえば当たり前のことなんだけど、その当たり前が、なかなか伝えられないし、伝えられないばかりか、自分自身がそもそも明確に自覚できていない。

知らざるを知らずとす、これ知れるなり、である。
EBMは振り返りの道具としてこそ有用である。今日の私自身の学びはこれである。

2009年12月24日木曜日

コミュニケーションの問題

今日は研修医の外来診察をビデオ取り下ものをみんなで見ながら議論するというカンファレンス。


時々爆笑が起きる。早い話がへたくそなのである。ぎこちない、たどたどしい、不自然、そういう言葉がことごとく当てはまる。しかし、そんなひどい面接なのだが、結構患者さんのことはよくわかる。繰り返し繰り返し同じ話をするので、患者自身がなにを重要と考えているかとてもよくわかる。ただ患者を理解することがどれだけ重要か。

患者が何度も同じことを繰り返してしゃべる。それが重要だとわかる。その反面、患者との関係はどうか。わかったというサインを明確に送り、こちらからも情報を発信しないといけない。相手からの情報を受け取っているばかりでは決してうまくはいかない。受け取ることと発信する事の対称性もまた重要である。情報の対称性が、医師患者関係を作るからだ。聞くだけでなくやりとりがあって始めて患者との関係構築が始まる。
コミュニケーションにとって患者を理解することよりも関係構築することの方が重要かもしれない。理解するというのはどちらかというと一方向性である。関係性は双方向である。そしてコミュニケーションも当然双方向なのである。
研修医に一言。聞くことは重要だ。しかしそれは医者があんまり患者の話を聞かないからそういう極端な意見が強調されているだけかもしれない。聞くと同時に、聞いたことに合わせて話すことにも注意を少し向けてみたらどうだろうか。

2009年12月17日木曜日

動的平衡

久しぶりのポメラである。書くということから何となく遠ざかっていた。読むことと書くことは二律背反なのか。ただそうたくさん読んだわけでもない。福岡伸一の著書など、決定的なインパクトのある本が何冊か在ったことは確かだけれど。


ウィルスは生物ではない。動的平衡こそ生物の特徴である。同じようでありながら、その構成分子は常に入れ替わっている。これは、別の角度からいえば、同一性の問題というふうにも考えられる。昨日の私と、今日の私、同じ私なのだが、違う私でもある。時間軸の問題。老化の問題。動的ということが昨日の私と今日の私の以外であり、平衡ということが同じということである。

動的平衡とは、全体を取り扱うというということでもある。恐らく。生態学的、ということと、動的平衡ということにはアナロジーが成り立つかもしれない。生物のルールと言葉のルールは同じ構造を持つかもしれない。それもまた似たようなことを表現している。

偶然だけが人生だ

5年ぶりくらいにボーイスカウト時代の師匠に会った。後輩にも。回る回るよ、時代は回る。喜び悲しみ繰り返し。今日は倒れた旅人たちも生まれ変わって歩き出すよ。巡る巡るよ時代は巡る。別れと出会いを繰り返し、今日は別れた恋人たちも生まれ変わって巡り会うよ。そういう実感。少しずつ変化しながら、繰り返す。決して元のままではないのだけれど、繰り返す。螺旋状に回りながら、そのうち遠心力で飛び去ってしまうような。引き合う力と離れる力は拮抗している。引き合うだけではすれ違ってしまうかもしれない。離れる力とつりあうところで出会いがある。


さよならだけが人生ではないのだ。そんな風に思う。年をとったものだ。さよならとは死ぬことである。そういう意味でなら、さよならだけが人生なのだけれど。

また何かが始まるかもしれない。偶然だけが人生だ。こうしようと思ってうまくいった試しはない。予感だけを頼りに、また何かを始める。そうではない。何かが始まる。何かに手を引かれないと進めない。しかし、手を引かれれば、進んでいける。あらかじめ設定された目標に向かって進むということは、とても困難だ。とにかく逃げ出したいのだから。逃げ出さないために必要なのは、目標ではなくて、認められること。必要とされること。

しばし止まっていた感じがする。そして、また歩き出す。何かの手に引かれて。

すべてのことは起こる

台風が近づき、豪雨があり、大きな地震があり、だからといって自分に何か変わりがあるかといえば、特に何もない。これは不思議なことだ。よくニュースなどで、聞くセリフは、多くは逆である。まさか自分の身に何か起こるとは思わなかったと。しかし、どこかで起こるのだから、自分に起きてもおかしくはない。そういう考えの方が普通に思える。むしろ、世の中こんなに大変なのに自分の身には何も起きていないかのようなことこそ、不思議といわねばならない。いつかは自分も死ぬ、それが当然で、自分が死なないような気がする、というのは不思議なことだ。そう言えばさらにそれは確かなことに思えてくる。


地震などの災害に巻き込まれて死んでしまうというのは、不思議でもなんでもない、普通のことである。そう言う普通の考えが異常に思えるところに現代の問題がある。

地震に巻き込まれないようにしよう、というのは重要だ。だからといって巻き込まれないようになるかどうかは別問題、そういうことである。希望は希望としてある。しかし現実もまた現実としてある。希望がすべて現実として実現するかのような希望が、希望を越えて当然のこととして取り扱われたりする。これこそ、絶望の始まりだ。

起きてはならないことが起きた、あるいは助かるはずの命が救われない、そんな言葉を毎日のように聞く。希望としてはわかる。しかし現実はそうそううまいこと行かないのだ。

人のせいにしないで生きる、そんな生き方ができたらどんなに素敵か。

悪人正機、唐突だけど、人のせいにしないということにつながる考え方のような気がする。悪人とは、世の中の悪のいっさいを背負って生きる人だ。善人とは、世の中のおいしいところだけをもらって生きる人だ。最も優れた人とは、何事も人のせいにしない悪人だ。最も愚かなのは、何事も人のせいにする善人だ。

まじめな人がまじめに怒っている、恐ろしい。谷川俊太郎だったっけ。まじめなのは、ただ単に悪を背負ったことがないからではないか。逆に、悪とは自分である、そう思えれば、開ける道があるかもしれない。

やらないことを後悔する

今日は研修先の診療所を訪問して楽しかったなあ。会う度に格段に成長していく研修医たち。


研修医は若く、私は若くない。当然のことではあるけれども。しかし、私だってまだ若いのかもしれないが、やはり20代30代の頃とは違う。かつては私だって、やったことについて後悔することは少なく、やらなかったことについて後悔する。そうだった。たぶん。それが今じゃどうだ。やったことを後悔し、やらなかったことを後悔することは少ない。なんという違いだ。楽しいような、悲しいような、である。失敗を取り戻すことが難しい。間違いをおかすくらいなら穏便に済ますようになる。

まだまだ若いといわれる。しかしもうそうでもないのだ。今少し元気がないだけのことかもしれないが、元気があればあったで、かえって自分の思いとのギャップに若さの喪失を実感するかもしれない。

自分に対する関心が薄れていくこと。それは若さではなく老いだ。しかし、そこが十分ではない。中途半端に年老いている。

なんについて書いているのか、自分でもよくわからなくなる。

何かを取り戻す必要がある。若さではない。もうその点では手遅れである。じゃあなにを取り戻すのか。

めがね

めがねを10年ぶりくらいに買い換えた。近視を限界まで矯正したら、なんと遠視がでた。近くが見えないのだ。それでなんと遠近両用めがねとなった。とうとう遠くだけでなく近くも見えなくなったか。犬はよい目を持っていたのですべてが灰色に見えた。私もよい目を持っていたので、すべてがぼやけて見えた。世の中はもやもやしており、頭の中ははっきりとしている。私もとうとうそういういい目を持ったということだ。めがねをかけてふつうの目にしておかないととても世の中やっていけない。


しかし、実際ふつうの目にはなっていないのである。確かに遠くははっきり見えるようになった。しかし、近くはいちいちぼやける。ピントが合うのに時間がかかる。まだまだよい目のままだ。寝床で本を読もうとすると、手を伸ばして本を持たなければいけない。なんてこった。それでも読みたければ読め。そういうことか。

ゼロの焦点

松本清張は期待を裏切らない。映画を見たあとのこの気分の悪さはどうだ。こういう気分にさせてくれる映画はそうそうない。




戦争で死んだものの声なき声。



生き残ったものの後ろめたさ。



生きている人が背負っている死者の数。



この道はいつか来た道



道行く人を睨むかのような切り裂かれた肖像画

組織

組織というものにはほとほとあきれる。といっても組織なしに生きることなんかもう不可能なんだけど。家庭、学校、職場、地域、国、世界。


それにしても、いつもながらのすれ違い会話。決して交わることのない。勝手にやらせてくれれば、とにかく結果を出すのに。実際出してきた。それでもでてくるのは否定的な意見ばかり。要するに「言うことを聞け」と。返す言葉は決まっている。「そっちの言うことなんか聞けない」と。

マイノリティ

マイノリティの問題。総合、包括、プライマリケア、EBM、臨床疫学、医学教育、なんと言ってもいいのだけど、所詮マイノリティなのである。今の自分のポジションはマイノリティだったからこそ得られてと言う部分が大きい。それを広めようとする仕事というのはそもそも無理がある。簡単に広まらないから自分にも大きなチャンスがあった。当然広めようとするには、自分が最大限に利用してきたマイノリティの問題を乗り越える必要がある。マイノリティがマジョリティになる。そういう道筋。しかしそこで失われるものこそ、自分自身が学んだ最も大きなことではないか。賛同者がいない中でも頑張り続けること。認められるとか認められないとか、意識せずに続けること、否定的な意見にさらされ続けても挫けないこと。マジョリティになったとたんにそういうことを学ぶことはほとんど不可能になる。


理解しない人に理解してもらうということ。マジョリティがマイノリティを理解するということ。しかし、マジョリティに属する理解できない人が、マイノリティに陥ることなく、理解できるということを果たして達成可能なのか。

難しく考えすぎ、ただそれだけのような気もするが。

雨乞いと医療

研修医が誕生日を祝ってくれた。うれしい。こんなうれしいことはない。いろいろな話をした。たとえば新興宗教。高山で美術館に入ったら、そこが真光教の本山だった。怖い。そんな話し。そこで唐突に、信仰を持たないものの祈り。大江健三郎が光君の言葉に気がついたきっかけについて。奇跡は起こる。怒ることが奇跡である。祈りとは起こりうることに対するものである。起こりうることに対して祈る。それが進行。起こり得ないことを祈ってはいけない。しかし祈ることができることはすべて起こりうることだ。ただ自分の身に起こらないから祈るのだ。どこかでは起こるが自分には起こらない。だからこそ祈る。


アウトカムとは何か。実はよくわからないもの。行き先が明確に見えているのはアウトカムではない。もっと大きなものがアウトカムである。どこへ行き着くかはわからないけど、ともかくどこかへ向けて進んでいく。それ以外にやりようがない。ただもう少し先を見ればアウトカムは明確となる。死ぬ、そういうことである。死ぬというアウトカムに比べれば、どんな明確なアウトカムを立てようとも、そんなものは陽炎のようなものに過ぎないとわかる。

いかに生きるかといかに死ぬかの間に境目などない。死ぬまでどう生きるかと言っても、どう死ぬかと言っても同じこと。どう生きる、どう死ぬ、問題はプロセスである。アウトカムではなくて。

総合とはどういうことか。個別の要素の合計が全体ではない。広く深く掘る必要がある。各要素の深みより、全体の深みの方が遙かに深いのだ。浅く掘っていて、総合が見えてくることなどあり得ない。



雨乞いと医療の相同性。雨を降らすために雨乞いをするのではない。雨が降らないから雨乞いをする。死なないように医療があるのではない。死ぬからこそ医療があるのだ。

不徳のいたすところ

不徳のいたすところ、だいたいは人のへまをかぶってその場を納めるときに使う言葉だ。自分自身がそう言えれば、それでうまく回っていくことが、自分の不徳と言えない。それが問題。


人のせいにするのは簡単だ。腹の中ではいつもそう思っている。しかし、腹の中と外は別である。外は常に自分のせい、そちらを強調することが重要だ。それが世の中の潤滑油。もちろん自分に責任が全くない状況というのもないんだから、まあそれでいいんだけど。

といいつつ、どうにもこうにも納得できないことはある。全否定されるという状況だ。全否定されて、それでもなおかつ不徳のいたすところと言えるかどうか、それが宿題。

ケースバイケース

個別の医療の提供のためにはケースバイケースの対応が求められる。確かにそうだ。医療を争論的に語るときに、個別の対応が重要である、そういう部分ではいつも容易に意見の一致が得られる。しかし実際個別の患者ではなかなかそうはいかない。ケースバイケースというのは対応する側が個別の状況で勝手に決めるということであったりするからだ。


ケースバイケース、便利な言葉だけど、だいたいはインチキに使われる。こちらのただ一つに理屈が、相手の状況によって使われるだけ。これは本当はケースバイケースと言わない。ケースバイケースとは、すべてをチャラにして考えることができるかどうかということ。様々な思考のチャンネルを対応するこちら側で持てるかどうか。一つのケースとは、そのケースの全体を指してケースという。当たり前だけど。全体に対応してこそケースバイケースである。ケースのうちこちらが対応可能な一部だけを取り出して対応する、これはケースバイケースではない。対応する側が最大限の守備範囲を持って対応する、これがケースバイケースである。

あらゆる選択肢を提示することができるかどうか。これがケースバイケースである。そのためにはあらゆる選択肢をとった場合のそれぞれに対応できるようにしなくてはならない。これを医師一人でやろうとするとうまくいかないし、実際無理である。だからチーム医療が必要になる。家族全体を対象にしたアプローチが求められる。地域を視点としたアプローチが求められる。なるべく多くの人が関わる中で決めて、多くの人の支援を元に対応する、こうなって初めてケースバイケースである。大変なことだ。

なんだかわからない

なんだかわからない。わかるわけがないのだけれど。ただはっきりしているのは、死ぬということ。それ以外はわけがわからない。取り留めもなく書き始めて、さらになんだがわからない。

複雑系、カオス、わけがわからないということを、多少はわけがわかるようにしてくれる言葉。でもそれって、わけがわからないってことと同じだ。単なる言い換えにすぎない。わけがわからないということをさらにカオスなんてさらにわけのわからない言葉に置き換えただけ。そういう意味では、「わけがわからない」といった方がことの本質をよくとらえている。


研修医たちと、生物心理社会モデルなんてことについてSkypeで会議したのだけれど、それこそわけがわからない。生物心理社会モデルは線形モデルではない。心身二元論ではない。還元主義ではない。冷静な観察者によって記述されるものではない。それではいったい何か。複雑系だ、カオスだ、というのであるが、要するにわけがわからないということである。


そういう流れで、当然議論自体もわけがわからなくなる。

パーキンソンの患者が題材である。たとえば、次男の事故死が、患者の転倒増加を引き起こしている、そんな考察がされる。それは、線形モデルだ、とつっこみを入れる。そんなことで転倒の増加が説明できてたまるか、というのが生物心理社会モデルである。じゃあどう説明できるのか。説明しないのである。説明でなく、なにをするのか。よくわからない。わからないままにとにかく使ってみるのである。めちゃくちゃに。次男が天国から母親を呼んでいるのだなどと。しかしそれも線形モデルか。宗教は基本線形モデルだ。信仰により天国にいける。まさに線形、還元主義。


そこでやはりソシュールである。対応の恣意性、文節の恣意性、連辞関係、連合関係、しかしそうなるともうますますわけがわからない。わからないままに時間が過ぎる。もうバスに乗らなくちゃいけない時間だ。それでは、バスの時間なので、これで失礼します、と研修医たちを置き去りにする。


というところですべてを置き去りにして、ここで筆を置く。

ご褒美

研修医がなかなか勉強できないと嘆く。



それでは、なかなか勉強できないなかで、頑張れるというのはどんなときか。そういうときにはどうしてがんばるのか。



それはその先に何か得られるものが待っているから。平たくいえばご褒美が待っているから、がんばる。日々外来で使っている行動科学の基盤にもそういう考えがある。外来なんていわなくても、自分の子供に対してだって、これをがんばったらあれをかってやる、なんてやったことがある。自分自身が子供の頃だって、そういうことがあったと思う。



こんな時、ご褒美というのは何かに対して与えられるものと考えている。今は息子が浪人中であるが、勉強した結果、ご褒美として合格がある。合格のご褒美として、合格祝いをもらう。そんなことだ。



夢は必ず叶う、そんなわけはないが、これも努力のご褒美としての夢の実現ということだろう。



それに対して、そんなにがんばらなくても、という意見もある。そうした人たちは、ご褒美なんかいらないのか、あるいはご褒美がなくても生きていけるのか。



自分自身もご褒美ということについて考えてみる。自分自身としては、がんばった結果ご褒美をもらうというのは、なんだか恥ずかしいようなことに思われる。少なくともいい大人がやることではない。といいつつ禁煙を勧める患者などで、これに成功したら妻にご褒美がもらえるよう約束してもらいなさいなどというのであるが。患者を子供扱いしている気がする。子供扱いしてでもたばこをやめた方がいいということか。禁煙なんてそれほどのことでもないような気もする。何かいいことがあるからがんばるというのは基本的にはスケベなことである。ご褒美はすべてスケベ心に繋がる。そんなご褒美はいい大人がもらうものではない。



それでは何かに対して与えられるという以外のご褒美とはどんなものか。スケベでないご褒美とは。交換条件ではないご褒美。



たとえば勉強。交換条件としての褒美がなければしない勉強というのはスケベな勉強である。スケベでない勉強とは、ご褒美を必要としない勉強である。しかし、実際そういう勉強をいつもしているのである。むしろそういう行為の方が普通である。勉強というとわかりにくいが、たとえば小説を読むということ。小説を読んでご褒美がもらえるとしてもそんな小説の読み方は長続きしないし、そういうご褒美のために小説を読む人は、いずれ小説なんか読まなくなる。しかしみんな小説を読む。それはなぜか。小説を読むこと自体がご褒美だからだ。

つまり、スケベでない勉強とは勉強そのものがご褒美であるような勉強のことである。読み始めたら止まらないような小説を読むようにやり始めたら止まらないような勉強をする。そんな勉強ができれば、勉強そのものがご褒美になる。そしてそういうことをやるときにはさしてがんばる必要はない。



というわけで、研修医にも、患者にも、何かの結果ご褒美をあげるなんてことは今後一切しないことを誓う。



ご褒美がなくても、がんばらなくても、できるようなことが重要なのだ。たぶん。

2009年12月11日金曜日

インフルエンザより怖いもの

インフルエンザの流行がなかなか収束に向かわない。しかし、「新型」と呼ばれた今回のインフルエンザが、これまでのインフルエンザとさして変わらないということはもう明らかだ。流行が続くとしても、別にどうということはない。外来が少々忙しいというだけのことである。それはこれまでのインフルエンザと同じこと。
インフルエンザ自体は、決して新型ではない。しかし、確かに新型であった。これまでのインフルエンザの流行とは明らかに違う。それではなにがいったいこれまでと違う新型だったのか。インフルエンザに対する反応が新型だったのである。かつて無効だとして、小学校から葬り去られたインフルエンザワクチンが、われもわれもと取り合いになっている。かつてのワクチンより、遙かに有効なワクチンが開発されたわけではない。同じワクチンに対する、市民やマスコミの反応がこれまでと違う。誰からワクチンを接種すべきか、そんなことはこれまで議論されたことはない。ある開業医が、優先順位をごまかして自分の孫に接種したというのが新聞に載っていた。医療者もこの変わりよう。たぶんこの医者はこれまで家族にワクチン接種をしていなかったのではないか。そういう気もする。
マスコミもまあこりもせず、昨日も今日も、インフルエンザで死亡、脳症発症とか、これまで全く報道もしなかった輩が、そういう記事を載せている。インフルエンザに気を取られていう間に、また誰かがかげで悪いことをしているに違いない。インフルエンザはもういいから、そうでない大事な事件をちゃんと追っかけてほしい。
ただ、外来患者の一部にはこれまでとかなり異なっている人が混じっている。これまで病院にはあまりこなかった人たちが、多く訪れる。その上インフルエンザというには結構元気そうな人が多いのだ。なぜ病院に来るかといえば、家族や会社の人にいわれてくるのである。ひどい会社になると、インフルエンザでないという証明をもらってこないと出社できないというのだ。こんなことは今だかつてなかったことではないだろうか。インフルエンザでないことの証明を必要とする会社。おそろしい。なにが恐ろしいのか。
そこで本題である。インフルエンザは確かに怖い。しかしこれまでと同じように怖い、それだけである。誰もこれまでと同じように怖いとは報道しないし、そのようには受け取らないが。それで今回、新型となってなにが怖いか。インフルエンザに対する差別意識が圧倒的に高まっていることが、もっとも怖い。
病気に対する差別と戦うことこそ、医療者の大きな役割ではないか。それを増長するようなことばかりをして、いった何のため医療か。

決定不能性

治療が有効かどうかなんて、実は決めることはできない。どう生きるのがよいかを決められないのと同様に。
降圧薬が有効かどうか、そんなことは決めようがない。efficucyとeffectivenessなんて言葉でごまかしたってだめだ。どちらにしろ決めようがないのだ。
血圧が下がる、それくらいのことなら、決定不能などとややこしいことをいう必要はないかもしれない。しかし、脳卒中を予防する、となるともうわけがわからない。死亡率を減少させる、となるともう嘘が明らかだ。
死亡率は100%である。それは決定済みである。議論の余地はない。それ以外はすべて決定不能。なにがいいのか悪いのか、なにが正しくてなにが間違っているのか。決めようがない。
ことば、言葉を選んだ瞬間に、何かを失う。決定できないなにかに、なにかではない固有の名前を付ける、ここにすべての問題がある。有効である、という言葉を選んだ瞬間にいったいなにを失ったのか。言葉以外すべて。