ここで働いています

2010年8月31日火曜日

カンブリア宮殿

 
孫正義出演のカンブリア宮殿。

夢を持った者だけが夢を実現できる。
そしてその夢の実現を心底望むか否か、それだけが夢を実現する人としない人の違いだと。

そりゃそうだ。
でも今必要なのは、夢を実現したいというポジティブさではなく、むしろ夢がなくても生きられるというネガティブさではないか。

夢はあってもなくてもいいと思う。自分自身はこれまで夢に向かって生きてきたということはない。
強い思いで夢を持てる人というのは、あまり誰かの助けを必要としない。だから、夢を持てというのは誰に向けたメッセージなのかよくわからない。夢を持つものはそんなことを言われなくても夢を持つだろう。

何かを求めているのは、夢を持てない人のほうだ。夢を持てない人はいつも何かを求めている。
その夢を持てない人に、何でもいい、夢を持てという。しかし、その何でもというのの一例が、「世界一のパンケーキ職人になるというのでもいい」というのだ。世界一というのは何でもいいということとは違うような気がする。夢が持てないという人が必要としているメッセージは、夢を持てということではない。それは私の経験が私に明確に教えてくれたことだ。

だから私はむしろこう言いたいのだ。夢が持てない人に向けて、夢なんかいらないのだ、と。
自分の心当たりはこんなこと。

生きたいと思う以外に、何の生きる理由が必要か。
言ったのは寺山修司だっただろうか。記憶は定かでないが。


 

2010年8月26日木曜日

バランス

 
今日は久しぶりに早く帰宅。こういうバランスが大事なのだ、といって、なんだかすっきりしない。

ワークライフバランスなんて言うけど、バランスをとるということがどういうことなのかよく考えないといけない。

読みかけで放ってあった鈴木大拙の「一禅者の思索」を何年かぶりに手に取ったのだけど、驚くべきことが書かれている。

<命というものは、両方の攻め合うものが、ちょうど攻め合って平均を取ると意味ではないが、-平均を取ったらもうそこに動きがつかなくなって死んで行くという事になるので、到底それでは生きるというような事はなかろうと思う。>

バランスが取れているところでは死んでいるということだ。生きるというのはバランスを欠いているということだ。動的平衡とはそういうことではないか。鈴木大拙が福岡伸一につながる。

ワークライフバランスを動的平衡という中でとらえなおすこと、生きるということ。仕事のことを家に帰ってからも引きずり、寝る前にもぐずぐず考え、夢にまで見て、また朝を迎える。それでこそ生きている。
 

2010年8月23日月曜日

手ごたえ

 
手ごたえあり。
研修医の成長は目覚ましい。
自分自身と同世代の者とは全く違う視点でものを見ている。もちろん今までの見方も知った上で。

変幻自在とはいかないけど、ひとまずは変幻不自由くらいはいけてる。

治療を拒否する患者に、一筆書かせて、あとはご自由にというような医療が、どんな基盤で起こっていることなのか、かなり見えている。

患者の治療拒否を受け入れられない。治療を拒否させないことが倫理的である。
そんな考えが基盤にあるうちは、こうした患者とうまく関係を結べない。そこを、治療拒否に対し、そういうやり方も考慮しながら相談しましょう、なんてアプローチができている。
これは驚くべきことだし、確かな手ごたえでもある。
 

2010年8月21日土曜日

まつりばやし

何年かぶりに、中島みゆきのアルバムを聴く
「ありがとう」

妻がカラオケで「ホームにて」を歌ってきたという

乗り遅れた私
走り出せば間に合うのに
でも間に合ってはいけないのだ

今日たまたま湯島あたりで聞いたまつりばやし
夏祭りの時期なんだ

ちょうど去年の今ごろ二人で 二階の
窓にもたれてまつりばやしをみていたね

けれど行列は通り過ぎて行ったところで
後ろ姿しか見えなくて残念だった

後ろ姿しか見えない
通り過ぎて行った自分自身

繰り返し繰り返し現れるイメージ
遠ざかる船のデッキに立つ自分
これは違うアルバムか

乗り遅れ、通り過ぎ、遠ざかる

自分自身にさよならし続ける人生
さよならだけが人生だ
これは寺山修司

古い自分よさようなら
新しい自分よこんにちは

相変わらずそういう陳腐なことしか書けないのは
実は古い自分とさよならできないから

時は流れて

流れの中で今はただ祈るしかない

そういえば、ダウンタウンに時は流れて

流れているのか回っているのか

小石のように
またあの山へ

観念奔逸でスピンアウト

2010年8月19日木曜日

死を体験する

 
死を体験するということはどういうことか。

死ぬのはいつも他人ばかり。
死を体験するとは、他人の死を体験するということ。
他人の死を最も体験するのは医師だろう。
体験することが重要なら、少なくとも医師は多くの死を体験した分、一般に人よりはるかに死について、理解しているにちがいない。

しかし現実はどうか。

体験だけではどうにもならないという証明のようなものだ。
 

2010年8月18日水曜日

おじいちゃんからの手紙

いつまでも長生きしてねという孫からの手紙に、おじいちゃんが返事を書く。

今日の手紙は孫のお前には少し難しいかもしれない。
お父さんといっしょに読んでください。

いつまでも長生きしたいのはやまやまだが、なかなかそういうわけにもいかないのだ。
そう思うのはただの自分勝手かもしれない。お前の手紙にかこつけて、自分勝手に生きることは決してよいことじゃない。
ちょっと考えてみればそんなことはすぐわかることだ。
たとえば、お前自身やお前の父さんより、じいちゃんのほうが長生きしたらどうなる。

だから今日の手紙はちょっと変なことを書かなければいけない。
じいちゃんはいつまでも長生きするわけじゃない。できる限りお前より先に死ぬように努力しなければいけない。そして、お前や父さんより先に死んだときに、喜んでもらえるようにしなければいけない。そのためには、それほど長生きせずに、適当なところで死ななければいけないと思っているんだ。

2010年8月17日火曜日

92歳の老人が

  
92歳の老人が、前立腺がんの検診について相談したところ、やらなくていいのではといわれ、年寄りだと思って相手になってくれなかったと怒る。

やりましょうなんて医者は、検査すればもうかるし、なんてことしか考えていないかも知れない。

逆にやらないほうがというほうがとてもいい医者かもしれない。

こんな患者を作った世の中こそ問題だ。
これもまた「末人」の一人かもしれない

よりよく生きる、健康で価値のある人生を送ろうという努力が、思いもよならない結末を迎える。
いつまでたっても病気になる恐怖から逃れられない。死に向き合うことができない。かえって不幸せな長すぎる人生。

幸せすぎる現世と、あるかどうかわからない天国。
釣り合うわけがない。バランスを欠いた人生だ。そんなことして、子供より長生きしてもいいのか。
しかしそんなこと言うと、いつまでも長生きしてねという孫に怒られる。子供はもういい加減に先に逝ってくれないかと思っていたりするが、そんな風に思うのは不謹慎なこととされる。

厳しすぎる現世と、頼りない天国なら、頼りない天国を選んで自ら死んでしまうというのも理解ができる。まだそのほうがバランスがとれた人生かもしれない。だから自殺すると天国へは行けないなんて現世で言われたりする。それはみんなが死なないための方便か。

お金についての番組からマックス・ヴェーバー

 
世の中がみんな石川啄木だったとしたら、資本主義は衰退するだろう。
資本主義の支えたのは借りたらきちんと返すような人である。そこに起源がある。

だから今の世の中から抜け出るためには、むしろみな石川啄木に成るべきではないだろうか。
借りたら返さない人がメジャーな世界。よくなるかどうかは分からないが、その先にあるのは今とは違うひょっとしたらいい世界かもしれないと、思わないこともないではないか。

世俗内禁欲が資本主義の起源となったように、むやみやたらな放蕩が、禁欲的な生活の起源になるかもしれない。

よく生きたい、健康でに暮らしたい、病気で人に迷惑かけたくない、そういう思いが、いつの間にか医療を崩壊させる。当初の基盤は、何か違う精神であったはずだ。しかし、その精神だけがすたれ、長生きしたいという欲望だけが生き残る。禁欲と資本主義の関係に似ていなくもない。

意図しない世の中の変化、歴史が示すのもそういうことではないか。

読むべきは、なんとかという詩人ではなく、石川啄木の方ではないだろうか。

「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は、医療者にとっても必須の本だと思う。禁欲と資本主義のつながりの逆説、よく生きたい気持ちと医療崩壊のつながり、よくよく考えてみる必要がある。

その最後のフレーズは痛烈だ。

<「末人たち」にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。
「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう」と。->

医療の末人の一人として、この言葉を自分自身の到達点として考えねば。
なんという結末を迎えているのだ、と今の状況を素直に受け入れることから始めるほかないのではないか。
 
 

2010年8月16日月曜日

お金を哲学する

 
NHKの番組に高橋源一郎が出ていた。

石川啄木は借金王だった。

バブルを通り過ぎて、今の人の方が、お金がないならないなりに生きていくすべを身につけている。

なんとかという詩人の詩が引用されていたが思いだせない。

マックス・ヴェーバーいうところの伝統主義まで戻れということか。
キリスト教が普及しない中で、日本の戦後の資本主義をヴェーバーはどう読み解くのだろうか。

禁欲というのは日本にぴったりくる言葉のような気もする。

ただ、そんな簡単なことではないな。
 

2010年8月14日土曜日

最後の親鸞2

 
≪もし、自力と「知」によって他者を愛しみ、他者の困難や飢餓をたすけ、他者の悲嘆を一緒に悲しもうとかんがえるかぎり、それは現世的な制約のために中途半端におわるほかない。たれも、完全に成遂することはできないからだ。これは諦めとして語られているのではなく、実践的な帰結として云われている。そうだとすれば、この制約を超える救済の道は、現世的な<はからい>とおさらばして浄土を選び、仏に成って、ひとたびは現世的な制約の<彼岸>へ超出して、そこから逆に<此岸>へ還って自在に人々をたすけ益するよりほか道がない。そのためには念仏をとなえ、いそぎ成仏して、現世的なものの<彼岸>へ行くことを考えるべきである。それこそが、最後まで衆生の慈悲をつらぬき通す透徹した道であるとー。≫

と抜き書きだけにしようと思ったが、自分なりに少し整理ができた。

どこまでも現世的なはからいを期待できる、あるいは浄土なんかなくたって大丈夫というのは、すでに救われている。善人なおもて往生す、ということか。

現世での解決が不可能となっても、生きることが苦痛でしかないところへ追いつめられても、浄土を求めずに生きることが可能かどうか。

人為に頼るか、自然にまかせるか。苦しみしかないような現世で、なおかつ自然にまかせるといえるかどうか。煩悩も自然の一つで、浄土もいらないといえるかどうか。念仏も不要といえるかどうか。

そこで、念仏を唱えるかどうかも、「面々の御計なり」という親鸞。

絶対他力。

念仏を唱えればいいのだという中には、どうやっても「自力」が混入する。

絶対他力の中で、念仏を唱えるとはどういうことか。

親鸞の≪吐息のように付け加えられている言葉≫に耳をかたむけるしかない。

親鸞は、<信心>を≪時間的連鎖≫としてとらえているという。

結局整理はできない。

因果モデルから構造モデルへ。

将棋のルールから羽生のルールへ、ここでも同じ問題が取り扱われていると思う。
 

2010年8月12日木曜日

将棋のルールと羽生のルール

 
将棋のルールとは、駒の並べ方や、それぞれのコマの動き、どうなったら勝負がついたとなるのか、というようなことで、とりあえずそのルールを理解すれば将棋を楽しむことができる。

それに対して、将棋のルールに基づきながら、別のレベルで、いかに勝負に勝つかというルールがある。羽生のルールとは、羽生名人がこの将棋のルールとは別レベルで基づいているルールである。

医療にも、将棋のルールと羽生のルールがある。
医療における羽生のルールをいかに明示的に記述するか、それが宿題。
 

感情をガイドにして

客観的な見方というのは、いつまでたっても判断につながっていかない。せいぜいわかるのは確率の高低くらい。

確率が高い方ばかりに賭けるのが能じゃない。

どうすればいいのかわからないとき、最後の一線を乗り越えるには、感情をガイドにするしかない。

あえて確率が低い方へと賭けるのは、決して不思議なことじゃない。でもその時に重要なのは、自分の感情に対して、客観的になれるかどうか。でも客観的というのは無理だな。

判断停止、現象学的還元。
感情をガイドにするためのテクニック。

2010年8月6日金曜日

最後の親鸞

 
ただの抜き書き

<わたし>たちが宗教を信じないのは、宗教的なものの中に、相対的な存在にすぎない自分に目をつぶったまま絶対へ跳び越していく自己欺瞞をみてしまうからである。<わたし>は<わたし>が欺瞞に躓くにちがいない瞬間の<痛み>に身をゆだねることを拒否する。すると<わたし>には、あらゆる宗教的なものを拒否することしか残されていない。そこで二つの疑義に直面する。ひとつは、世界をただ相対的なものに見立て、<わたし>はその内側にどこまでもとどまるのかということである。もうひとつは、すべての宗教的なものが持つ二重性、共同的なものと個的なものとの二重性を、<わたし>はどう拒否するのかということである。たしかに、<わたし>は相対的な世界にとどまりたい。その世界は、自由ではないかもしれないが、観念の恣意性だけは保証してくれる。飢えるかもしれないし、困窮するかもしれない。だが、それとても日常の時間が流れていくにつれて、さほどの<痛み>もなく流れていゆく世界である。けれど相対的な世界にとどまりたいという願望は、<わたし>の意志のとどかない遠くの方から事物が殺到してきたときは、為すすべもなく懸崖に追いつめられる。そして、ときとして絶対感情のようなものを求めないではいられなくなる。そのとき、<わたし>は宗教的なものを欲するだろうか。または理念を欲するだろうか。そしてやはり自己欺瞞にさらされるだろうか。たぶん、<わたし>はこれらのすべてを欲し、しかも自己欺瞞にさらされない世界を求めようとするだろう。そんな世界はありうるのか?
 

2010年8月1日日曜日

ダウンタウンに時は流れて

とにかく読め!

スーパーシステムよりスーパーな何かがある。
生きることは、システムでも、スーパーシステムでもない。

思えばこのブログも多田富雄の本の感想から始まったのであった。

今一度、多田富雄の本を読みなおしたい。

地域医療研修センターの終わりと始まり

7年と4カ月、長いようで短い時間。長いという意味と短いという意味を同時に表すような言葉があるといいのだけど。たとえば、「ながかい」というように。

万物は流転するのだ。

色即是空なのだ。

別れと出会いを繰り返すのだ。

これでいいのだ。

踏み出す一歩が、ずぶずぶとめり込む沼地に向けたものであっても。その重みは自分で受け止めるしかないものだ。

生きるとはずぶずぶ徐々にめり込んでいくことだ。もうすぐ50ともなれば。

それでもまた何かが始まるのだ。
組織というようなつながりではなくて、縁というようなつながりの中で、何かが始められれば。

こういうしゃらくさいことを書かなければならないのは、何か整理がついていない証拠だ。
でも整理がつくなんてことはないだろう。

2010年8月、新しい地域医療研修センターが始まる。