ここで働いています

2011年8月30日火曜日

ニート、ファイトじゃなくて

わたし、大卒なのに仕事をもらわれへんのやと書いた、青年の文字は誤字だらけで、思わず笑ってしまった。
大卒のくせにと皮肉を言われた、青年たちの目はすでににごっていて、せっかくもらった仕事も、長続きせず、すぐにやめてしまう。

わたし本当は目撃したんです。昨日電車の駅、階段で、車椅子で担がれた老人が、タクシーに乗ろうとすっと立ち上がったのを。
わたし驚いてしまって、非難もせず、叫びもしなかった。
ただこわくて逃げました。弱者の敵は弱者です。

ニート、戦わない君の歌を、戦う人たちが笑うだろう。
ニート、生ぬるい風の中を、震えもせず下っていく。

レトルト食品が一番うまいんだと、青年たちは閉じこもっていく。
化学調味料の味に慣れると、おふくろの味は飽き足りない。
いっそ手作りなんてやめてくれたら、もっと楽に生きられるかもしれない。
中途半端に太って、飢餓はなく、どちらかというと満腹なのだ。

勝つか負けるかなんて、くだらない、摩擦を避けるのが第一だと、
そう教えてくれたのはだれだったか、でもそれは正しいと思う

ニート、戦わない君の歌を、戦う人たちが笑うだろう。
ニート、生ぬるい風の中を、震えもせず下っていく。

田舎を出てきたおやじが建てた立派な家に、住みついて何が悪い
旅に出てはどうかなんてやさしくしてくれるが、そうはいってもそれは無理な相談だ。
うっかり、何かみつけたりすれば、やっぱり頑張らなくてはなんて勘違いをする
あんた代わりに行ってきてくれよ、人里離れた、田舎町に

ニート、戦わない君の歌を、戦う人たちが笑うだろう。
ニート、生ぬるい風の中を、震えもせず下っていく。

あたし飼い犬だったらよかったわ。飼い主の思うままに、
言うこと聞いて、座っていれば、銅像にだってなれるから

ああ、大人たちの群れ、よろよろと、向こう岸へ、流れていく。
帰る田舎がないと思い込むのも、それはそれで仕方ないことだ。

ニート、戦わない君の歌を、戦う人たちが笑うだろう。
ニート、生ぬるい風の中を、震えもせず下っていく。

ニート、戦わない君の歌を、戦う人たちが笑うだろう。
ニート、生ぬるい風の中を、震えもせず下っていく。

ニート?


2011年8月25日木曜日

おやくそく

 
おやくそく通りの行動をとったときに、どういうことになるか。
テストだと、合格になる。
実際の現場ではいろいろだ。

たとえば、主人公が白血病になるというような小説を読んだときに、どう思うか。
またかと。
当然いろいろな小説があるわけで、むしろおやくそくでない小説を求めたりする。

開業したばかりの今は、ほとんどの患者さんが初めてで、お約束を守ってやるのが安全だ。
それでも2回目、3回目の患者も多くなってくると、もうお約束は通用しない。
1回目を忘れて、また自己紹介しようものなら、何だ前のことを忘れているではないかと、そこでもう減点100ということだってある。

お約束通りを続けてうまくいくのなら、それはそれで一つの解決だ。
しかし、実際にはうまくいかないし、なによりもそれではなんの面白味もない。

出てくる医者、出てくる医者がみんなおやくそく通りに同じことをやったら、患者さんは息が詰まってしまうだろう。

今の自分は、主人公が白血病で死ぬというような小説を書き続けているような状態かもしれない。

自己紹介は1回でいい。あとはもう変幻自在にやりたい。

で、その変幻自在って何だ、ということになるが、これがよくわからん。

明日からはちょっと作戦を変更してやりたい。
できるかな。

2011年8月13日土曜日

生活に根差した関心、続き


「生活に根差した関心」、といった時やはり真っ先に頭に浮かぶのは、「死」のことである。

明日死んでしまう可能性を無視できないというのは、「死」が生活に根差したものになっていないからではないか。

「明日死んじゃってもいいんだけどね」とあっけらかんと言う多くの老人に出会ってきたけど、それは何か生活と死というものが一体となっていて、死に対する考え方が単なる観念ではなく、生活に根差したものになっている気がする。もちろん生活に根差したところで死は観念なんだけれども。

これが10年後の死となったときに、その可能性を多くの人無視できなくなり、がん検診を受けたり、生活習慣病予防に努めたりする。そこで、10年後の死というものは、生活に根差したものなのかどうか。必ずしも根差してはいない。明日の死を心配したいする状況とそうは変わらないところがある。

逆に、明日の死も10年後の死も心配せずに生きられるというのはどういう状況か。死ぬわけない、死ぬ可能性を全く無視できる場合。しかし、それもまた「死」が生活に根差したものになっていないという点では同じだ。

「生活に根差す死」とは何か、死ぬ可能性を全く無視するわけでもなく、あまりに恐れるわけでもなく、その中間で、時に無視し、時に心配しながら、「死」以外にも多くの重要なことがあり、その多くの一つとして「死」のことがあり、その多くを含めた全体が自分の生活である、というような「死」の位置づけ。

明日死ぬ可能性はほとんどゼロ、50年後には100%、そんな極端の中で、日々生活していることの重要性。死を無視することよりも、死を恐れることよりも、今生活していることのリアルさ。

まだ十分ではないが、少し考えが進んだ気がする。
引き続き考えていきたい。





2011年8月12日金曜日

生活に根差した関心

思えば、日々様々な可能性を無視して生きている。

たとえばこれから寝るのだが、寝てる間に死んでしまう可能性。
この可能性はゼロじゃない。しかし実際はほとんどゼロだと考えて、明日の生きて起きたあとのことの方が心配で、眠れなかったりする。明日の朝は来ないのかもしれないのに。

あるいは巨大な隕石が地球に激突して地球上の生物が全滅してしまう可能性。
それだってゼロじゃない。でもそんなことは無視して、明日の朝は遅刻しちゃいけないと、目覚まし時計をセットする。寝てる間に生物全体が滅びてしまうかもしれないのに。

そういう中で、癌で死んでしまう可能性を無視せずがん検診を受け、高血圧で脳卒中になる可能性を無視できず降圧薬を服用する。

そこでなんとなく思うこと。
無視できることがどんどん少なくなって、ちょっとでも可能性があれば無視できない、そういう方向がある。

その半面、酒を飲み、たばこを吸い、自動車をスピード違反で走らせ、無視できないような可能性を無視するということも相変わらずである。

可能性を無視するかどうかは、その可能性の大小ではなく、その人の関心の度合いによる。ただそれだけのことだ。

そこで考えること。関心というものはどういうものか。

生活に根差した関心、というものを多くの人が失いつつあるのではないだろうか。

「生活に根差した関心」、これからの大きなテーマだと思う。

2011年8月4日木曜日

高血圧の問題と原発事故による被曝の問題を重ねてみると

東大の児玉先生の発言ビデオを見て、いろいろ見えてきたことがある。

これまで自分がやってきた中で、常に私の発言に対する対抗勢力が声高に叫んでいた部分と重なるのである。そう言えば、私はこういう発言に向き合いながら、学んできたのだと。

高血圧は脳卒中を引き起こす。高コレステロールは心筋梗塞jを引き起こす。だからできるだけ血圧を下げ、コレステロールを下げなくてはいけない。児玉教授の発言は、そういう発言と重なるところがある。放射線によりがんになる。それを何とかして防がなくてはいけない。そういう構造でみると同じなのである。

しかし、その血圧を下げる効果が3%の脳卒中を2%に減らすに過ぎなかったり、コレステロールを下げる効果が、心筋梗塞を30%減らすものの、それ以外の疾患を増やしていたというようなことがある。

そこでさらに、最近テレビで血圧の正常値は130mmHg未満ですとやっているが、そのコマーシャルと今回の発言を重ねると、いろいろ腑に落ちることがある。

脳卒中と高血圧の関係は、血圧が低ければ低いほど脳卒中が少ない傾向にあるということは多くの研究から明らかである。上の血圧についてはすでにゆるぎないエビデンスがあると言っていいかもしれない。
つまり、血圧の正常値が130未満だとしても、それよりも120の方が脳卒中の危険は少ないし、さらに100ならもっと少ない。90以下なら、と血圧の基準を際限なく下げていく立派な根拠がある。
事実高血圧の基準は、ガイドラインが改定されるたびに、160から140へ、そして130へと下がっている。

今のところ血圧130の人に降圧薬を処方しようというような動きはないが、遅かれ早かれそういう動きが出てくるだろう。そしてその考え方にはすでに一定の根拠があるのだ。そうすることで、脳卒中の絶対数は減少するし、本来70代で脳卒中になるところを80台まで伸ばすという効果もあるだろう。

しかし、問題は効果の評価だけでは不十分だというところだ。保険で賄う以上、血圧の基準を厳しくすることにより、多くの人が保険診療で降圧薬の処方を受けることになると医療費が増大する。さらに降圧薬による副作用の問題もある。そうした様々なデメリットとはかりにかけて、基準を厳しくするかどうか判断する必要があるのだが、これはなかなかに難しい問題である。それでもやっぱりどんどん厳しくなる方向へ進むというのは、豊かな世の中と副作用の少ない治療など、様々なものがその背景にある。

そこで原発事故による被曝の問題はといえば、被曝は少なければ少ないほど癌にならない、多けれ多くなるほど癌になりやすい、というしきい値なし仮説をとれば、高血圧と同じである。低線量被曝はがんを減らすという仮説をとれば、そもそも議論の意味がなくなるので、ここではしきい値なし仮説をとることにする。

そこで、100mSV越えというような被曝が、血圧160以上というようなこれまでの基準に相当すると考えてみる。そうすると、それを下回るような被曝は、血圧でいうと、130とか120とかいう基準に相当するのかもしれない。

しきい値なし仮説で行けば、確かに10mSVよりも5mSVの方が癌になるリスクは小さい。もっと被曝を減らす処置を徹底的に取るべきである。さらに1mSVへ、0.5mSVへと、どんどん話が厳しくなる。しかし、そのためには、高血圧の治療同様、莫大なコストがかかる。転居というようなことになれば、多くのものを失うことになる。

そういう中で、死ぬまでに50%が癌になるという現状で、50歳でがんになるのを49歳に早める、というような被曝量(それを計算するのは高血圧のときのような簡単ではないが、ある幅をもっては予想できるだろう)を避け、50歳までがんにならずに済む、というような効果に見合うコストの投入や、被曝を避けるために失うものとのバランスを考える、というのはとても重要なことではないだろうか。

児玉教授の発言は、これまで私が聞いてきた「血圧は低ければ低いほどいいのです」、「コレステロールは低ければ低いほどいいのです」という発言に似ている。そういう発言を聞くたびに、そんなわけはないだろうと思っていた。今回もそれと似たところがある。

全体を考えたときに、「被曝を少なくすれば少なくするほどよい」というような単純な問題ではない。それは急性被曝に当てはまるかもしれないが、慢性障害については少し的が外れている。
慢性障害については、高血圧やコレステロール同様、リスク・ベネフィット全体をとらえた、冷静な分析が必要である。ただ、それはとても困難なことだろう。

自分自身がどう行動を起こすか、それが問われている。それで、とりあえず書いてみた。
どうだろうか。多くの人に考えてもらいたい。

2011年8月3日水曜日

相対主義を徹底したい

 
ひとつの視点にとらわれない、というのは一番重要なことだと思う。
原発の問題、喫煙の問題、ワクチンの問題、もっとざっくりと言えば、すべての問題について。

「あなたの考えは?」と問われたときに、私の考えを述べることは重要だが、その時に、こうも考えられ、ああも考えられる、という「私の考え」の述べ方こそ重要ではないか。

悪しき相対主義、そういうことがいわれるが、とにかく相対主義を突き詰めたい。
相対主義だけは絶対であると。

構造構成主義というのを勉強して、「これはいい」と思うのだが、なぜいいのかというとなかなか難しい。よく理解できていなということが最も大きな原因かもしれないが。

よさの説明が難しい理由に、構造構成主義が「メタ理論」をうたっていることにあるのではないかと思う。メタの視点というのは、相対主義のドグマの一つだと思う。俯瞰的な視点をもつことが重要だ、というのだが、俯瞰的な視点もまた、関心相関的に取り扱う以外にはない、と構造構成主義に取り込んでいくと、結局、「メタ理論」というのは存在しないことになってしまう。

原理と原理でないものの違いがよくわからない。

そこで、自分の一番ゆるぎない基盤、それが原理だといいのだが、それがどこにあるのだろうかと考えてみるに、「いい加減」とか、「どうでもいい」、「なんとかなるさ」とか私の好きな言葉が、その基盤であるような気がする。、少なくともこれらの言葉は「私の考え」といってよい言葉だと思う。

いい加減に、どうでもいいつつ、なんとかなると、「相対主義の徹底」に挑戦したい。

とかなんとか言いつつ、今日もレコーダーを取り換えに来た電気業者に切れている私ではある。

厳しいものがある。