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2011年7月28日木曜日

いい加減な世の中は、いい加減に生きるに限る

糖尿病のエビデンスについて3時間ばかり話した後に、ちょっとはっきりしたことがある。

頑張って治療をしてもうまくいかないことは多いし、たいして頑張らなくても、それなりにうまくいくこともある。

インスリンで治療している場合の死亡率でみると、HbA1c6%と10.5%がほぼ同じという驚くべき観察研究のメタ分析がある。

インスリンを使えば合併症が予防できて万事OKということはないし、それどころか科学的な理屈とはむしろ逆に、適当な治療でHbA1cが10%を超えたときの死亡率と同じだったりする。

そして、これは何も糖尿病に限ったことじゃない。
今生きている世の中がまさにこうだ。

ああすればこうなるなんてことはないし、全くの無秩序でもない。そういう「いい加減」な世界に生きている。
インスリンでの厳しい治療をするごとく、厳しい規律のなかで生活してもうまくはいかない。逆に、あまりに自由な生活も大変だ。

世の中自体が「いい加減」な世の中なのだから、自分だけが「いい加減」じゃなく、きっちり生きようとしても無理というものだ。ただあまりにいい加減では、それもまた苦しい。そのためには、まさにいい塩梅、いい具合だというような意味での「いい加減」が重要だ。

世の中を糖尿病に例えると、今の世の中はHbA1cでいえば、7-9%の世の中という感じではないだろうか。6%の世の中を目指すのはしんどい。10%を超えるままでも大変だ。それで実際のところ、今の世の中はうまくコントロールされた世の中といっていいような気もする。

「いい加減」な世の中では、理想的な生き方と全くの無秩序な生き方という両極端の間で、「いい加減」に生きるのがいいのだ。

今まさにここにある世の中が「いい加減」な世の中なのだから、そこに生きるものも「いい加減」がいい。

私が書くことにしては珍しく、今日は最後のメッセージはまあまあ明確だ。

今生きている世の中は、必然でもなく、偶然でもなく、その間にある。自分もそれに合わせて、必然に固執せず、偶然にあまりに身をゆだね過ぎないように、「いい加減」に生きたいものである。

2011年7月22日金曜日

フェアじゃない

 
ある雑誌の取材を受けていて、とても印象深い出来事があった。

スタチン以外のコレステロール降下薬で非心血管疾患死亡が多いという論文結果を示した時に記者が言ったこと。

「このデータだけを示すのはフェアじゃないですよね」

確かに。しかし、そう簡単に引き下がるわけにはいかない。

「そうだとすると、コレステロール低下薬で心筋梗塞が減るという効果の部分だけを示すのもフェアじゃないですよね」

薬の効果のみを示す際に、だれもフェアじゃないとは言わない。しかし害だけ示すとフェアじゃないといわれる。

これが治療効果の情報に関する典型的な構造だ。

診療時間内なんですが

 
診療時間内なんですが、患者がいないのでこんなことしてます。

「センター長日記」というのは変なタイトルだ。ただ自分としては少しこだわりのあるタイトル。

8年前、ある公益法人に地域医療研修センターという僻地医療専門医育成を目的とした部門にセンター長として赴任したところから、いろいろなことが始まった。

いろいろうまくいかないことも多く、4年後、赤羽の病院に移動、病院の臨床研修センター長として出直した。そこはとても居心地のいい病院だったけど、上の子供2人が就職したこともあり、また何か新しいことをやりたくなった。

そして今年、開業して、そのクリニックに「地域家庭診療センター」を立ち上げて、また改めてセンター長になった。

「地域家庭診療センター」とは、私の母校にあった地域医療学という講座の臨床部門の名前である。今はもうないんだけど、その名をお借りして、そこから続く、何か、自分の精神的な支柱という、

なんて書いていたら、患者さんが現れた。

また、続きはそのうち。
 

何かを特別視する

 
私も、家庭医療専門医制度の指導医のはしくれなんだけど、これから家庭医になろうとか、今研修中とかいう人たちの発言でいろいろ気になることが多い。まあそういう人たちに大きな関心をもっているというわけだ。

そのうちの一つ。

「家庭医は精神疾患を特別視しない」

特別視するという立場と特別視しない立場は実はとても似ている。
『「家庭医は精神疾患を特別視しない」という家庭医の立場を特別視する』といえば同じ構造である。

このように自分自身を特別視するというような立場は、往々にして危ない立場だと思う。自分自身を特別視するくらいなら、精神疾患を特別視して、すべてコンサルト、紹介し、自分自身では一切精神疾患にはかかわらないという専門医の立場の方が信頼できるかもしれない。

もし家庭医に役割があるとすれば、単に「家庭医は精神疾患を特別視しない」ということではなくて、そもそも精神疾患が特別視される文脈に対する関心であり、自分が反対の立場に立ちたいという関心を抱く自分自身の基盤に目を向けることなのではないか。

自分のやっている仕事が何か特別な仕事である、そう思いたい場面は多くあるが、実際にそういうことはあまりない。多くは勘違いだ。

ひとかどの医師として、ひとかどの仕事をする。

でくのぼうと呼ばれたいなどとは決して言えないが、せめてひとかどの人として生きたいと思う。

つまりは、私自身も、自分を特別視することがよくあり、その時の自分に対する嫌悪感や違和感の反映が、今回の家庭医療に関わる人たちの発言に対する、私の反応なのである。だから今日ここに書いたことは、自分自身に対するものでもある。

自分を特別視しそうになる自分自身にどう歯止めをかけるか、それは自分自身の課題なのだ。
もう一度肝に銘じたい。

2011年7月16日土曜日

原発も怖いが、医療機関はもっと怖い

 
福島第一原発が落ち着きつつあるのかどうかよくわからんが、それでも放出される放射線量も、これから大幅に増えるというような危険はそれほど大きくなさそうだ。地震直後からのダダ漏れ状態から、何とかギリギリのところで持ちこたえたといっていいのではないだろうか。

それでも世の中の興味も批判もいまだ原発に集中しがちだが、医療機関も結構怖い。原発と比較してという話は、どうも評判が悪いが、あまり原発に気をとられるとそれはそれで問題だ。

で、どんな話題かというと、薬の副作用や検査による被ばくについての問題である。毎日毎日山のような検査と薬が消費されているが、その副作用というのはいったいどれほどのものか。

最近のメタ分析によると、入院患者の5%くらいが薬の副作用によるものだという報告もある。毎日何人の入院患者がいるのかよくわからんが、そのうちの5%というと相当な数だろう。

さらには、医療機関では、CTなど被曝を受ける検査も毎日山のように行われているが、本当にそれらの検査が必要なものかというとかなり怪しい。その被曝量と言ったら、今の原発事故の非ではないだろう。一つの病院ですら、一日に何十人もの患者が一人当たり10mSVなんて単位の被曝をしているのである。

そういうことを考えると、牛肉食べるのを控えるより、医療機関での検査や薬を最小限にとどめたほうが、正しい対処かもしれない。

開業して1か月、そんな役割が果たせるような医者になれればと、思っているのだが、やはり多くの人はいきなり病院へ行って、多くの検査を希望し、できる限りの治療を望むのが主流で、なかなかきびしいのである。

大きな話題を振っておきながら、最後は自分の話。 かなり落ち込む。

2011年7月15日金曜日

かなえられない欲望をもつことはまっとうか

 
大酒食らって、飲んだくれて死んでいきたい。そういう欲望はかなえようと思えばかなえられる。
しかし、いつまでも健康で、長生きしたい、という欲望は決してかなえられることがない。死ぬという結末は避けられず、その欲望は決してかなえられないということが分かっている。

そのかなえられない欲望に対して、その欲望かなえますというような情報が世の中に氾濫している。

これはもう世の中自体が変わっているということだろう。

うまいもの食べたり、どこかへ旅行へ行ったり、それで満足が得られた時代から、それがいつまでも続かなければ満足できない時代へと変わっている。

うまいものを食べたいというのはまっとうな欲望で、いつまでも健康でというのはゆがんだ欲望だと思うが、医療の現場に身を置くと、それが全く逆で、前者がうまいもの食べすぎをコントロールできない人となり、後者が自分の健康を律することができる立派な人になったりする。

そして、そのへんてこりんな構造が、一般の世の中にも徐々に浸透しているように見える。

これはとんでもないことではないだろうか。


日本にも一神教が普及し始めるのだろうか。今キリスト教が熱心に布教活動すれば、日本にもキリスト教が普及するかもしれない。

ただもうこれはいきつくところまで行くしかないのだろうか。いまさらこの欲望をコントロールすることができるかどうかというと、何か絶望的な気持ちになる。

しかし、まずはそういう欲望に向き合う機会の多い医者たちが、それはゆがんだ欲望ではないだろうかと、患者に問いかけるようなことから、始めていくほかないような気がすると書いて、そんなことは無理だなと思う。

ただそれ自体とてつもなくわけのわからないことで、とても受け入れてもらえそうにない。

「でんでら」だったっけ。週末にでも見に行ってみようと思っている。
 
 

2011年7月13日水曜日

根拠の本質

根拠というものがどういうものか、ちょっとわかった気がする。

たとえば、机から物が落下するということ。こういうことはふつう根拠を必要としない。とにかくそうなるわけだから。もし根拠のようなものがあるとしたら、古典力学というようなことなのかもしれないが、それは根拠というより理論である。

そこで理論と事実の関係を考えてみるに、当然のことながら、事実より理論のほうが守備範囲は狭い。理論は事実の一部を説明するに過ぎない。ただ常に「ものが落ちる」という事実がゆるぎないので、理論が事実を打ち負かすようなことはない。理論と事実の不整合は、理論を作り変えることで対応される。

それに対して、「治療が有効である」というようなことはどうだろうか。「ものが落ちる」というのとどこが違うのか。「有効」というのは実はきわめて曖昧なもので、「落ちる」というのとはかなり違う。この「有効」のあいまいさが、何をもたらすのか、ものが落ちるときと比べて考えてみる。

「有効」ということは、対応する事実があいまいであるがために、理論そのものが事実と重なってしまうような勘違いが起きる。また理論と事実に整合性がない場合には、理論に合わせて事実の解釈のほうを変えてしまうというようなことも起こる。

たとえば最近のネタで、いかにもという例がある。血糖の集中的な治療が死亡を増やすというような結果を示した場合、血糖を下げれば死亡が減るのは自明の事実であって、増えたなどというのは、研究方法や対象に問題があって、事実が捻じ曲げられているのだと、そんな説明を何度となく聞いた。

そんなわけはないだろう。事実は「死亡が増えた」ということである。その事実を受け入れ、「死亡が減る」という理論こそ見直されるべきだ。もちろん、捻じ曲げられた事実の可能性もあるので、少なくともやはり事実は事実として理論を見直すような方向の思考を付け加えるべきではないか。そうでなければ研究の体系そのものが怪しくなる。しかしそのような発言をする人はほとんどいない。

根拠は理論を証明するために要求される。厳然たる事実があれば理論は必要ないかもしれない。しかし対応する事実があいまいだからこそ、理論のために根拠を要求される。これが根拠の本質だ。

人間が生きるのは、机からものが落ちるようなものではない。一枚の木の葉がひらひらと舞い落ちるようなものだ。本当はもっと複雑で訳が分からない。

そんな人の一生に対して、医療が有効なんてことを示すのは、事実で示せるはずもなく、理論や、事実に見せかけた理論的な解釈で示すほかはない。その理論を補強するためにこそ根拠を必要としている。その構造が壊れない限り、臨床研究結果はどこまでも悪用(それは言い過ぎかもしれないが、少なくとも治療効果を水増しするように使われるかもしれないという意味で)され続けるに違いない。

2011年7月12日火曜日

「そういうことを書くな」と言われたところで

 
いばる人から、口づてに、間に2人ほど人を介して、「こういうことを書くな」というお達しがあった。私が何を書こうが、文句を言われる筋合いではないんだけど。相変わらずいばってる。

今度書いた時には、何か制裁でも考えているのだろうか。おーこわ。

「書くな」というのは勝手だけど、そんなこと私に言われても、言うことは聞かないですよ。

いばるのはいい加減にしたほうがいい。いくらいばられても、そのために言うことを聞くということは決してない。それは私に限ったことじゃないと思う。

誰かに何かをするなとか、言うなというのは無理だと思う。誰かに何かをするなというからには、自分がそう言われた時には、それに応じて、何かをしたり言ったりするのをやめなくてはいけない。
それこそ、一番馬鹿げたことなので、とりあえず、あなたが何を言うかに文句をつけたりしませんから、こっちが何か言うのも許してください。そのほうが、住みやすい世の中だと思います。

なんていっても通じないだろうな。
ホントに不思議な人たち。いばる人。いったい何様なんだろう。

2011年7月6日水曜日

人からほめられる前に、自分で自分をほめるな

 
「人からほめられる前に、自分で自分をほめるな」の続き。

プライマリ・ケア連合学会はずいぶん盛り上がったらしい。わたしも会員の一人として、プライマリ・ケア医のはしくれとして、とてもうれしい。できれば私も参加したかった。
しかし、参加してどうしたかったかといえば、一緒に喜ぶというより、ちょっと一言、言いたいのである。喜んでいる場合でもないと。

プライマリ・ケア医の中には、これまで認知されていない恨みが渦巻いていた。でもそんなことはどうでもいいのだ。わたしはわたしの道を行くのだ。そう進んできた。そういう人たちが集まって、それぞれの私の道が重なり合って、仲間がこんなにいるじゃないか。これはどうやっても盛り上がる。

その盛り上がりに、水を差すようだが、やはりちょっと言いたい。

プライマリ・ケアの盛り上がりは、まだまだ内輪の盛り上がりに過ぎない。
「他人にほめられる前に、自分をほめてはいけない」という掟に従えば、まだまだ自分をほめてやるには早い。
この盛り上がりは、ある意味、世に認められていないから、内輪で盛り上がるという面がないわけじゃない。

開かれた学会へ、開かれた医療へ、まだまだこれからである。プライマリケア医が自分で自分をほめるには、まだまだ早い。

2011年7月4日月曜日

いばる

松本復興相ですか。すごい。ちょっと興味ある。

「いばる」というのは、最も不快なことの一つだ。
前いた団体の上の方の人たちの一部はこういう人たちだった。それを思い出すからか。

そういう個人的な体験に強く結びつくことに関しては、あまり語らない方がいいと思うけど、少し別の考え方ができるかもしれない、そうも思うので少し書いてみる。

わたしは威張る人に向き合うと、どうしても威張り返したくなる。自分も同類項ということかもしれない。

威張るやつが一番嫌い。威張る自分が一番嫌い。
と言いつつ威張り返すわけだから、全くひどいもんだ。

自分が威張るのはなぜか。認めてもらいたい、そういう承認欲求の裏返しであるような気がする。

それで話は少し変わるのだけど、プライマリ・ケア学会で、なんだかとてもいいセッションがあったらしく、「今日という日は自分をほめてやりたい」なんて書き込みがTwitterにあったのだが、何か微妙な気がする。自分で自分をほめるような状況というのは、自分であれば、ちょっと厳しい状況のような感じがする。周りが認めてくれれば、そんな必要はないのだから。有森さんだって、あまり評価されず、スポンサーもない中で頑張った挙句のコメントだったと思う。

だれもほめてくれないから、自分でほめておくというような、実はさびしい状況。

しかし、書き込みにある自分をほめたいというその本人は、全然厳しい状況らしくはなく、周りからも認められていて、なおかつ自分でも自分をほめたいという感じだ。

これは一体どういうことなのだ。ちょっと理解ができない。威張る復興相より、こちらの方が理解困難かもしれない。

でも、松本復興相を自分と重ねてみると何となくわかる。政治家というのはもはや他者から認められることはほとんどない。そういう状況で自分を律するしかない。いつまでたっても他者から評価されず、自分で自分をほめるしかない悪循環が基盤にある。少し前までの自分もそうだったかもしれない。

他人からの評価が最初に来るというのはとても重要なことだ。学会で、自分をほめたいという人たちは、そもそも他者からの評価が先にある。だから、そのあとに自然に自分で自分をほめたいということが来る。有森さんとは少し違うのだ。

それに対して、私なんかは、他者の評価より先に自分の評価があって、それでうまくいかなくなっていたのだ。

認められないから威張る
認められないから自分で自分をほめる
そうなるともうなかなかそこから抜け出せない。

それに対して、最初から他者の評価が関心の第一であれば、まずそこをクリアしようと頑張る。そこをクリアした先に自分自身の評価がある。そういう順番でやれば、案外認めてもらえる。
まわりから認められると、自分自身でも自分を認めることができる。こういう順番が重要。

ひとつの黄金律を見つけた。
人からほめられる前に、自分で自分をほめるな。

もうほとんど手おくれだけどね。

2011年7月2日土曜日

大晦日のどんちゃん騒ぎ

 
久しぶりにソファに横になって、半日ばかり本を読む。

養老孟司、池田清彦の「ほんとうの復興」

今の世の中は、大晦日のどんちゃん騒ぎ。何億年もかかって蓄積してきたエネルギーを、大晦日の一日で使い果たしてしまうというような。そんなふうに書いてあった。ちょっと違うかもしれないけど。

これでは年が明ける前に全部使い果たしてしまうので、原子力なるものを使い始めた。

そう考えると、やめるべきはどんちゃん騒ぎであって、原子力が使われるようになったのはその結果に過ぎない。
原発廃止はどんちゃん騒ぎの中止とペアで考えなくてはいけない。

それで、どうしたらどんちゃん騒ぎがやめられるのか。

すばるの、中沢新一の「日本の大転換」を読んで、つながるようなつながらないような。

多神教、中庸、贈与性、キアズム。

確かに一神教と原発は似ていると思う。永遠の命、永遠のエネルギー、限りない欲望。

それで今から診療なんだけど、医療機関にかかるというのも、大晦日のどんちゃん騒ぎの一つだろうか。たぶんそうだ。

狭い場所で

うんと狭い場所に閉じこもって、鎖国時代の日本のように、といったところで、いまやありとあらゆるチャンネルで世界はつながっている。

グローバリゼーションって言うけど、もうそうなってしまっていて、ローカルにとどまるのはとても困難だ。
でも本当に重要なのは、ローカルにとどまることではないのか。

東大が9月入試を検討しているという。東大はますます埋没するだろう。桜のない入学式には、グロ―バルな、金太郎あめのような、やる気に満ちた、前向き野郎たちの顔が並ぶに違いない。そういう人たちは、もう必要ないほどたくさんいるではないか。

海外から学生が来るというなら、4月の入学式をぜひ経験すべきだ。日本の大学が、そういう役割を果たさなくて、一体どういう役割を果たすのだ。

こんなふうに足並みをそろえるというのは、個別の役割を捨て去るということに他ならない。ちょっと言いすぎか。

しかし、狭い場所で、マイノリティであり続けたい。ローカルに行動したい。ローカルに行動することで、広い世界とつながる、そういう道があるはずだ。グローバルなんていう狭い世界へ向かうのではなく。


開業して、ますますそういう気持ちになる。この狭い場所こそ、世界に通じているのだ。