ここで働いています

2012年3月28日水曜日

医療行為と結果の分析:構造主義医療の実践

構造主義医療実践の基本的枠組みが完成した。
とりあえず忘れないように書いておく。

医療行為とそれがもたらす結果の分析を例に考えてみる。

メタボ健診を例にとろう。

・メタボ健診を受けるが受けないか
・日々の生活が幸せになるか

以上の2つの軸で4分割表を書いてみる。


    幸せ
メタボ健診 受診あり a c
受診なし b d


a: メタボ健診を受けて幸せな生活を送る
b: メタボ健診を受けず幸せな生活を送る
c: メタボ健診を受けて不幸な生活を送る
d: メタボ健診を受けず不幸な生活を送る

メタボ健診を勧める人はaとdを重視している。
勧めない人はb、cを重視している。

「メタボ健診は有効である」というコトバを考える際に、その背景の現象には、4分割表で明らかになるような状況が常にある。有効と言えない可能性がある中で、「有効」というコトバが世の中に広く伝えられるような、さらに基盤の構造はどのようになっているのか。

それも様々な軸で考えられるが、例えば以下の2軸

・メタボ健診を推進するかしないか
・医療費が減るかどうか

これを同様に4分割表で考えると、メタボ健診を推進する人は、推進すると医療費が減るという部分を重視しているという構造が見いだされるかもしれない。

さらに

・医療費を減らすか減らさないか
・国家財政が破たんするかどうか

そういう軸でさらに分析。

どこまで基盤に降りられるか。いかに多様な軸で考えるか。

まあそれだけなんだけど。

2012年3月3日土曜日

生きることは苦しみの連続だ、ということにしておく

楽しい人生が続くというのと苦しいことの連続だというのとを比べれば、楽しい人生が続いたほうがいいと思う。

でもその連続が、死ぬことで終わりになることを考えると、これはなかなか困難な問題だ。

楽しい人生、苦しい人生の2つ。
死の受容と拒否の2つ。
その2つの組同士での、4つの組み合わせで、人生を考えてみる。

苦しんだ挙句に死を受け入れる。
苦しんだ挙句に死を受け入れられない。
楽しい人生の後に死を受け入れられる。
楽しい人生の後に死を受け入れられない。

死を受け入れるためには、人生が苦しみの連続であった方が受け入れやすい。ああ、これでようやく楽になるのだと。

逆に人生が楽しいことの連続では、なかなか死を受け入れるのは困難だろう。

しかし、苦しみの連続なら死を受け入れられるというわけでもないだろう。苦しみの連続の中で、幸せになるまでは死んでも死にきれないというのもあるかもしれない。

でもやっぱり、楽しい人生を送りながら、死を受け入れることができたら、それが一番いいのかもしれない。

今の世の中は、楽しい人生を送るのが当然となって、いつまでも楽しい人生が送れるはずだというような勘違いが、普通の考えになっている。死ぬことは常にその楽しい人生の対極にあって、いつも遠ざけられている。だから、楽しい人生を送りながら、死を受け入れるのは、それほど簡単なことではなくなっている。

ずいぶん前、おそらく数年前のことだと思う。80代、90代と思われるがん患者さんが、「私はがんには負けません、絶対勝ちます」と何かの番組で語っていたのを思い出した。前後の脈絡はすっかり忘れてしまったが、その場面だけが今突然思い出される。

そこで起きていることは、今日の分類に従えば、もっと楽しい人生を送りたい、苦しみを乗り越えて再び楽しい日々を取り戻したい、そういう人たちである。共通なのは、死を受け入れられないということである。

ここで考えたような4通りの人生を想像したとき、一番実現性が高いのは、人生は苦しみの連続だけど、死ぬまでのことだから頑張ろうというような生き方ではないかという気がする。

というわけで、人生は苦しみの連続である、ということにしておこう。