ここで働いています

2011年2月27日日曜日

医師は不足しているか3

 
不足しているとはどういうことか。実はそれがよく分からない。

なんとなく不足しているからと言って医師定員を増やしてしまったが、私も増やす側に加担した一人だ。しかし、それ以後ももっと増やせというような動きが続いて、ちょっとヤバいと思う。

民主党のマニフェストによると医師数を1.5倍にするという。知らなかった。その根拠はどこにあるのだろう。なんとなく1.5倍というようなことだとすると、それまた大変な話だ。何の根拠もなく1.5倍と言っているとしたら、そういう人たちに任せておくと大変なことになるだろう。不足しているのは医師ではない。政治家の方ではないか。ただそれは定員での話ではない。任せることのできる政治家が不足していて、そうでない政治家は余っている。実際、国会議員の定員削減という方向は変わっていない。医師も本当は削減すべき部分もあり、増やす部分もありという問題ではないのか。政治家の不足という視点で見ると医師不足も実は似た面がある。

足るを知る、という言葉があるけれども、多くを望まないというようなニュアンスがある。しかし、医師不足という背景には、むしろ限りない欲望みたいなものを感じる。満足のレベルが、無理な方向へ振れすぎている。足るを知るということを考えながら、何が足りないかを考えるというような、そういう考え方をしない限り、医師をいくら増やしても問題は解決しない。足りないばかりを考えて医師を増やしていくと、いずれ国会議員の定数削減と同じように、医師定数削減ということにもなりかねない。必要なのは単なる医師免許を持った人というのではなく、足りないというだけでなく、足るを知るというような適切な医療を提供出来る人だと思う。

医師不足は医療の問題の部分にすぎない。
 
 

2011年2月26日土曜日

プレゼンテーションのときに大事にしていること

 
何かと頼まれて講演やワークショップでプレゼンテーションすることが多いのだけど、大事にしていることはたった一つだ。

「この時間で何を伝えたいか」、それだけ。
そして、そのときに伝えたい人とは、伝えたいことについて興味があまりない人だということ。

そのために何が必要かというと、伝え方とか、技術的な問題もあるのだが、最も重要なことは、その伝えたいことに対しての自分の思い入れと、聞き手の思い入れのギャップをよくモニタリングしながらやることだと思う。少なくともそこにギャップがあることを理解しながらやっているというそぶりを聴衆に見せること。そういうとこれも技術的な問題かもしれないが。

こちらの思い入れが、ギャップを埋める方向に作用し、余計なお世話でなく、なんとなく伝わったときに、プレゼンテーションはうまく行く。

こちらが伝えたいことに対しギャップなくすでに興味をもってくれる人は、どんな話し方をしても案外付いて来てくれる。というよりはすでにこちらのいいたいことは伝わっており、新たに何か話す必要がないかもしれない。だから、どんなときでも、何かを話すときには、自分のいいたいことに対しギャップを感じている人に伝えるためにこそ、話しているのである。

ギャップの大きさ、誤解の幅こそがコミュニケーションの源泉である、それはプレゼンのときにも当てはまる。
 

2011年2月25日金曜日

国立大学の入試の日に

 
今日は国立大学の試験らしい。理系学部の競争率が上がったと新幹線の中の文字ニュースが流れている。それでちょっと書きたくなったこと。

自分自身にとっても、ついこの前のことのようにも思える。受験以後あまり経験しないような気分だから、いくら日がたっても遠くなった気がしないのか。よくわからんが、30年以上前という、そんな遠い日ではないような気がする。

振り返ってみるに、そのときに考えていたことは、「いい大学に合格したい」ということであって、「医者になりたい」ということではなかった。別にそれはそれで今となってはまったく問題ない、といえるのだけれど、まあなんだかトンチンカンなことをしていたことは確かだ。それでも25年もやっていると、それなりにいろいろわかってきたこともある。たかだか18歳で医者になりたいと思うのは、ある意味とっぴな考えだけど、とっぴな考えでなく医者になろうと考えるのはほとんど不可能だ。

で、実際に医者をやってみると、いろいろやり始める前には予想もしないようなやりがいがあり、当初の選択ミスも帳消しにはされたのだが、それがわかるには相当な時間を要した。

医者になってみてよかったことはいろいろあるが、一番よかったのは、いくらでも仕事があるということだと思う。いくらでも仕事があると思うから医者になります、そんな理由を聞くと、そっちのほうがとっぴな考えに思うかもしれないけど、病気の人を救いたいんです、なんてのは結構とっぴなことだ、と自分の中では明確になっている。それでもそういう病気の人を救いたいというようなとっぴな意見を持つ人が医療を支えているのも事実で、現実はそういう道が王道であるのもまた確かなことだ。

でも、人が救えるから医者になってよかったというふうに思える人は案外少ないのではないかと思う。

というわけで(どういうわけだかわからんからこう書くのだが)、これから働こうという人たちに、いくらでも仕事がある領域を選びなさい、というのはまあまあ的を得たアドバイスではないだろうか。
 

病院か、温泉か

 
みんな医療機関の使い方を間違えている。

人生が賭けであるように医療は賭けである。必ずいい結果が得られるような場所ではない。
そんなの医者のいいわけだ、という声があるが、まあそうかもしれませんが、とだけ答えておくことにする。

医療機関にかかるかかからないか迷うとき、以下の4つの場合を考えてみる。

1.医療機関にかかって幸せな人生を送る
2.医療機関にかからず不幸せな人生を送る
3.医療機関にかかって不幸せな人生を送る
4.医療機関にかからず幸せな人生を送る

賭けとして考えた場合、3が最悪である。一番は4だろう。最悪を避けるためには医療機関にかからないのがいい。最善を目指すには医療機関にかからないのがいい。どちらにしても、賭けるなら医療機関にかからないほうだ。そういう考えも出来る。

唐突だが温泉へ行くということについて同様に考えてみる。

1.温泉に行って幸せな時間をすごす
2.温泉に行かず不幸な時間をすごす
3.温泉に行って不幸せな時間をすごす
4.温泉に行かず幸せな時間をすごす

最善は1か。そこが少し違うような気がする。温泉は行くこと自体が幸せだが、医療機関へ行くのは行くこと自体が不幸である。そこに医療に賭ける問題点がある。

だから、私の場合、温泉か、病院かで迷ったら(そんなふうに迷わないと思うけど)、答えは明らかで、温泉に行くのである。
 

2011年2月23日水曜日

何度も使える言葉は結局一度も使えない

 
インフルエンザの説明はこうやっておけばいいんだ、となったところが誤解の始まり。
何度も使える説明を編み出したところが落とし穴。

「検査が陽性ですからインフルエンザです」
「検査が陰性ですからインフルエンザではありません」

実際はそんなことではないんだけど、検査が普及するというのはこういうことだ。

説明に正解はない。
ないから、検査するかどうかは自分で考えて、というのなら医者はいらない。
正解がない中で、そこでのみ通用する1つの回答を生み出すこと。

「一回きりの使用にたえうる言葉」
高橋源一郎のつぶやきがいまだに頭でこだまする。

妻を失い、事故で自立した生活が出来なくなった息子を介護し、嫁と孫は再婚し出て行き、ついには息子を看取り、一人ぼっちになった老人がいう。

「よかった」と。

インフルエンザの患者に、検査もせず、処方もせず、「よかった」といってもらえるかどうか、それが宿題。
 

2011年2月20日日曜日

共通体験を欠く病気の定義の恐ろしさ

 
100人糖尿病の人がいれば、100通りの糖尿病がある。病気を診ずに人を診なさい、というのも同じようなことだろうか。

しかし、現代の病気の落とし穴は、こういうところにこそあるのではないか。

個別性を重視するあまり、ひとつの病気もばらばらになり、ひとつにまとめる動きが必要。無理に一つにまとめるから恣意的になる。一般的に記述が、共通体験が薄いためどうしても偏ったものになる。

たとえば、戦争体験、というのは、ある世代のある人たちにとって、個別に考えることが不可能なくらい、共通する体験だ。
かつての、感染症も戦争体験に近い。死に至るような感染症の蔓延を多くの人が同時に体験する。

しかし、今の病気の体験というのは、あまりに個別化して、お互いの話がなかなか通じない。共通体験が病気として定義されているのではなくて、共通体験を欠くがゆえに、病気の一般的な定義を必要としている。

その結果、生み出された病気の定義が、いったいどのようなものになるか。
どんどん厳しくなる高血圧の基準や糖尿病の基準も、そう考えるとずいぶん腑に落ちる。
 

2011年2月18日金曜日

ワクチンについて少し考えてみた

 
「そのまま」という高橋源一郎の http://twitter.com/#!/takagengen つぶやきを読んでワクチンについて少し考えてみた。

私の周辺はワクチンを推奨する人たちが多いし、ワクチンをうたない人が批判されがちな環境にいる。私もどちらかといえばそういう意見だ。それに対して、「そのまま」という話。

ワクチンをうたず、病気になっても、後遺症が残っても、死にそうになっても、死んでしまっても、それでいいじゃないか、そういう方向の話か。

つぶやきのまくらに、高橋源一郎自身が、自身の子どもの脳炎になった時に、子どもがどういう状態になったとしても、受け入れる決意をした、と書かれている。そして、そう受け入れたときの自分自身は不思議な幸福感を感じたと語る。

この幸福感について理解することは難しいかもしれない。しかし自分自身を振り返るに、同じような患者さんをたくさん診てきたと思う。病気になっても、障害を残しても、それを受け入れることで幸福感といわなくても、決して落胆することなく、普通に日常を生きていた患者さんたち。

もし高橋源一郎のように一切を受け入れる決意が出来、幸福感を感じるようなことが出来れば、ワクチンを受けようが、受けまいが、いずれにせよ大丈夫だ。

重要なのは「そのまま」を受け入れることができるかどうかで、ワクチンをうつかうたないかではない。受け入れられないと、ワクチンをうっても、ワクチンのない別の病気にかかったときに、それを受け入れることが出来ず、結局不幸になる。

ワクチンを受けない「自然派」も実はワクチンをうつことが受け入れられない。逆に「ワクチンをうつ派」は病気になることを受け入れられない。

「そのまま」が受け入れるポテンシャルをもちながらワクチン接種を受ける、まあワクチンは例に過ぎなくて、あらゆる医療を受けることが出来れば、かなりの幸福感を得られるかもしれない。

実際のつぶやきは、このあとべてるの家の話につながっていく。統合失調症をそのまま受け入れ、生きているべてるの人たち。
かれらは「治さないでください」という。その気持ちは高橋源一郎が脳炎の息子の行く末を受け入れる決意したときの幸福感につながっている。

受け入れられたら、医療なんかいらない。人は、生まれ、生き、死ぬだけのことだ。
しかしそう簡単にはいかないところで、医者の役割が少しはあるのではないかと思う。

ついついこのつぶやきにリアルタイムで付き合ってしまい、今週はひどい寝不足だ。
しかし、寝不足の頭でも、考えが止まらない。

ぼくは病気だろうか。
 

エビデンスが普及しないわけ

 
エビデンスが普及しないのはなぜか。
一説にはかなり普及したという意見があるが、むしろ偏ったエビデンスが普及したというのが実情ではないかと思う。

ひとつには臨床上の問題が明確にならないから。
ひとつにはエビデンスの収集ができないから。
ひとつにはエビデンスを批判的に読み込めないから。
ひとつにはエビデンスと目の前の患者のギャップに気がつかないから。
ひとつには自分自身の医療行為を評価反省しないから。

そして最大の問題は、多くの医師が医療を変えようとは思っていないから。
さらに変えようと思っている人もエビデンスと関係なく変えようと思っているから。

たとえばかぜ。
家で寝てればいいのである。
ただ自分ではかぜかどうかわからないから一度は医者かかる必要があるかもしれない。
しかし、かかるとしても寝てればいいかどうか確かめに来ればいいのである。

しかし、そういう方向へは行かない。エビデンスは明確にもかかわらず。
かぜは医療機関にかかるのが重要。
症状を軽くするための薬が重要。
変化を求めるとしたら、かぜを診断する検査か。
そんなのいらないような気がするのだけど。

エビデンスを軸にかぜは家でゆっくり休もう、そういうふうに変えたいのだが、なかなか変わらない。

こういう僕は病気なのだろうか。
 

2011年2月15日火曜日

医師は不足しているか2

 
医者の需要を増やしているのは一部では医者自身だ。
早期発見を心がけましょう。
早めに受診しましょう。
少しでも心配があれば専門医に気軽に相談しましょう。

それにメリットがあることは認めるが、デメリットもあることをもっと明確にすべきではないか。

最近ある学会で、がん検診の問題点について指摘した。
検診により乳がんによる死亡は確かに減少する。しかし、がんの罹患全体は増え、乳がんと診断され治療した患者では乳がん以外のがんによる死亡が増加する。乳がんによる抗がん剤の治療や放射線治療で別のがんが増えると考えればこれはとても納得のいく結果だ。

こういう中で検診を勧めるとどうなるか。
検診の業務が増え、精密検査の業務が増え、治療の業務が増え、さらには治療による副作用に対する業務が増える。乳がん検診の場合、それ以外のがんまでかなり増えているという研究結果が示されている。その分の仕事が増えるのだ。それに対して、得られるメリットは2000人を検診して、ようやく1人の乳がんによる死亡を減らすくらいの効果である。こういう事業を公費でやるとすれば、相当な議論が必要だが、効果が明確だというだけで、害やコストのことが議論されないまま、どんどん検診が勧められる。

人の命は地球よりも重い、そんな幻想で、一人でも助かるのだからと、医療を進める時代はとっくに終わっている。しかし、乳がんを減らさなければ、そういう声だけが聞こえる。

逆に医者が足りないのだから、そうそう検診事業を進めるわけには行かないという医者の意見を聞いたことがない。

医師不足を叫ぶ人たちは、何かの医療をむやみに進めつつ、医師不足を訴えるのは一種のマッチポンプ状態にあることを自覚すべきではないか。

自分で需要を増やし、自分で供給が足りないという。これはまさにマッチポンプだ。

どういう医療が必要なのか。医療費の投入に見合うのか。そういう議論なしに医師不足だけを叫ぶと、医療は今度こそ本当に崩壊への道をたどるだろう。
 

放っておいてもよい「かなりの患者」の見分け方

 
ご飯がある程度食べられる。
眠れる。
だんだん悪くなっているわけではない。
今までした病気とあまり変わらない。
突然症状が完成したわけではない。

とりあえずそんなところ。

2011年2月13日日曜日

医者は不足しているか

 
医学部の定員増が行われ、最近では医学部新設が取り上げられるなど、医師が不足している、そういう方向だ。

医者は足りないよりは多い方がいいと思うが、医療の需要をあおる構造ばかりが先走る中での医師不足という認識が、欠けているのではないかという気がする。

医者が不足しているというのに、これほどにもCTやMRIが普及するというのはどういうことか。糖尿病や高血圧の基準がどんどん厳しくなるのはなぜか。健診をどんどん進めるのはなぜか。インフルエンザを疑ったら早目の受診をすすめるのはなぜか。

病院の外来ですら、かなりの部分の患者は、何の検査も、何の治療も必要なく、家で寝てれば良かったりする。そもそも病院に来ないという選択肢がじゅうぶんありえる患者である。しかし、病院に来た以上、この病気を見逃してはということもあるし、病院の経営を考慮したりすれば、こちらもついつい検査をしたり、薬を処方したりする。そのために、膨大な人手と膨大な時間が費やされる。

それで医師不足というのはどうにも本末転倒だ。
現状のまま医者だけ増やしても、医師不足は解決しないだろう。業界が食っていくため、医者自身が食っていくために需要を増やし続けるだろうから。
 
 

2011年2月10日木曜日

誰が何を基準に選ぶのか

 
夕刊で、乳がんのリンパ節の拡大切除によっても生存率や再発率に差がないという論文を紹介している。このような論文は、毎日のように発表されているのだが、いったい誰がどのような基準で、選択し、記事にしているのだろう。

つい先日は、ある抗がん剤でがん死以外の死亡が増加したというランダム化比較試験のメタ分析結果が発表されたのだが、全く記事にならない。

厳格な血糖コントロールで死亡が増加するという研究が出た2年前はどうだったか。記憶にないくらいだから、あまり取り上げられてはいなかったのではないか。

誰が何を基準にやっていることなのか、ぜひ明らかにしたい。
 

2011年2月8日火曜日

「私はあなたの専門です」と「患者様が医療を壊す」

 
家庭医の説明として使われるこのフレーズが最近ちょっと気になる。
こういう方向が、医療を困難にしている。
岩田健太郎著『「患者様」が医療を壊す』を読んで、そう思う。

「あなたの専門医」というときに、あなたについて一番知っているのはあなた自身だということに、医者も反対しにくい。ここに今の医療の大きな問題がある。

インフルエンザを心配する私の気持ちは、私自身が一番わかっていて、それを私の専門であるあなたにもわかって欲しい、こういうことに振り回されないようにしないと、医療崩壊は止まらない。

時間のない中で質の高い診療をするというのは、ある意味質の高い医療を提供するための必要条件かもしれない。時間が十分ある中で質の高い診療など提供できないのではないか。

少しわかりにくいがそう思う。
みんな、『「患者様」が医療を壊す』を読め!
 

2011年2月3日木曜日

言葉は何を表わしているか

 
たとえばインフルエンザが心配で検査をしてくださいという患者。
それに、インフルエンザだとしても心配ないですし、仮に検査が陰性だとしてもインフルエンザでないとは言えないので、検査は無駄ですよという医者。

「インフルエンザ」という言葉が示すものは、同じ言葉でありながらバラバラだ。コトバ自体は、インフルエンザについて何を表わしているわけじゃない。だから当然様々な誤解が起きる。

言葉としては一応同じだから、全く違ったものを示す言葉であっても、とりあえず話が通じてしまう。本当は通じてはいないのだけど。

ということで、「インフルエンザ」という言葉が表わしているものはいったい何かと、個々の患者でいちいち考えていかなくてはならない。
こういうのも「病の語り」の一面だが、あまりここにこだわると、単に言葉に振り回されるだけのことになる。

言葉が表わすものはばらばらだ、何か一つのことを表わしているわけじゃない。全く当たり前のことなのだが、そのことだけは常に肝に銘じておかなくてはいけない。
 

明日より遠い日知らない

 
「明日より遠い日知らない」

高校時代の同級生がやってたバンドの歌の一節。
最近、繰り返し、繰り返し、このフレーズがこだまするのである。

しばらく忘れていたような気がする。

明日のことはわからない。だから生きてる。
ただ、行きつく先はどんどん近づいてきて、そろそろだな、という日もそう遠くはなくなってきて、
それでも、明日より遠い日知らない、と、そこがポイントだ。

死ぬ前提での、「明日より遠い日知らない」
若かったころには、死なないつもりでいたような気がする。
明日が遠い日であっても全然構わないのだ。

今は少し違う。明日があまり遠くては困るのだけれど、それでも明日より遠い日知らないと言おう。

何かを少し取り戻した気がする。
 

2011年2月1日火曜日

重要なのはコミュニケーションか?

 
外来をやりながら、こちらの考えがうまく伝わらないことがよくある。そういうときに、そこでの問題は、コミュニケーションがとれていないということなのかどうか。

検査をしても偽陽性が多くてあまり役に立たない状況でインフルエンザの検査を希望する患者に、いくら説明をしてもうまくいかないこともあるし、逆にちょっとの説明ですぐに納得してもらえることもある。前者はコミュニケーションがとれていないくて、後者はとれているということだろうか。

インフルエンザの検査に対する、医者側の理解と患者側の理解のギャップ、具体的には医者は不要というし、患者はしてほしいというようなギャップ、そこにコミュニケーションをむつかしくする原因がある、それがコミュニケーションのとれない理由の説明の一つではある。確かにその通りという気もする。

しかし、医者も患者も検査に同意して、流行期のインフルエンザ患者との接触が明らかな患者について、発症直後であっても検査をするし、陰性だからインフルエンザではないと判断する、というのはコミュニケーションが取れているといえるのかどうか。それは単に言葉が通じているというだけで、問題が何も解決されていない。つまりこれは話が通じているかどうかというだけでは解決しない問題だ。

それでは問題はどこにあるか。現象とコトバのギャップにある。こうした見方をするようになると、ありとあらゆる問題は、医者と患者のギャップではなく、現象とコトバのギャップに見えてくる。