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2024年4月18日木曜日

身体性のない言葉をどう身に着け、どう使っているのか: ことばの習得過程とアブダクション推論から

  引き続き、言語学を助けに、いろいろ考えてみる。「言語の本質」1)で、ことばの習得過程について検討されているが、これを医学情報におけることばの習得過程、具体的には「

マスクが予防に有効というランダム化比較試験とそのメタ分析がある」とか「マスクが予防に有効というランダム化比較試験とそのメタ分析がない」とかいうことばの束の意味をどのように習得するかに重ねて検討してみる。

  「言語の本質」では、アブダクションという推論方法を基に、ことばの習得過程を明らかにしている。まずアブダクションについて説明しておこう。推論方法には演繹法、帰納法がある。それに加えて3つ目の推論方法としてアブダクションが挙げられている。まず以下に例を示そう。


演繹

マスクは感染を予防する

彼はマスクをしている

彼は感染しない


帰納

感染しなかった人は全員マスクをしていた

今日出会った人もマスクをしていた

マスクは感染を予防する


アブダクション

マスクは感染を予防する

周囲の人はみんなマスクをしている

彼はマスクをしている


 演繹は、その内部においては正しい。ただ前提の「マスクは感染を予防する」が間違っていれば、当然結論も間違う。自分の中では正しい論理が、外の世界では間違いとされるということである。

 帰納については、そもそもマスクをしていても感染する人が出てくれば正しくないことになる。前提の正しさを問わなくても、内部の推論としての結論に間違いの可能性がある。

 それではアブダクションはどうか。これはそもそも仮説生成に過ぎない。みんながマスクをしているからと言って「彼がマスクをしている」かどうかはわからない。「彼はマスクをしている」というのは仮説であって、そもそも正しいかどうかを問うてはいない。

 これをマスクに関する医学情報に繋げて考えてみる。「マスクを付ける」という判断をした人には、「マスクは感染予防に有効である」という前提がある。しかし、その前提は多くの人を集めて帰納的に得られた研究結果に基づくもので、今後別の研究で「有効でない」という可能性は常に残されている。さらに、重症者を見ている病院の医師の多くは、マスクをせずに重症化した人を多く経験し、マスクをしていて重症化するという経験から、感染していない人はマスクを付けているに違いないという間違いも犯しやすいだろう。

 逆に「マスクを付けない」という判断をした人も同様である。ここには「マスクは感染予防に有効でない」という前提がある。しかしそれも、マスクが有効という研究によって、覆される仮説にすぎない。さらに、アブダクションにより、私はマスクをしてなくても感染しなかったという経験と、周囲にマスクをしない人が増えても感染が減り続ける状況から、マスクは有効でない」という仮説を結論としてしまいやすい。

 こう書くとどうやっても間違えるしかないということになりかねない。しかし、言語の習得ということで言えば、この間違いの繰り返しが、接地しない抽象的な言語を習得するために必要不可欠なことだというのである。得られた結論は常に仮説にすぎない。疑ってかかりながら、日々暫定的に判断し、行動していくほかない。ただそれが言語習得を進歩させる。誤りこそが進歩をけん引していくのである。

 ここで重要なことは、ヒトはとにかく間違えるということである。帰納法も誤るし、アブダクションはそもそも仮説にすぎない。さらに演繹も機能やアブダクションから得られたものを基盤にしており、その前提が正しいとは限らない。論理的に考えることは間違えることだと言ってもいい。そしてその間違いを修正することで、言語が進歩し、科学が進歩してきたということである。このことが「言語の本質」の中で明確に指摘されている。

「人間はアブダクションという、非論理的で誤りを犯すリスクがある推論をことばの意味の学習を始める前からずっとしている。それによって人間は子どもの頃から、そして成人になっても論理的な過ちを犯すことをし続ける。しかし、この推論こそが言語の習得を可能にし、科学の発展を可能にしたのである」

 ここでは言語だけでなく、科学の進歩にまで言及されている。この部分を読んで、これこそ私自身が根拠に基づく医療:EBMを実践する中で、学んだことではなかったか、そう実感する。実感するというのは今日の文脈で言えば、身体化すると言ってもいい。

 抽象化したことばが身体に接地するためには、長い時間が必要だし、誤りを直し続ける必要がある。そして、それは言葉や科学に限ったことではなく、日々の生活そのものにも当てはまることではないだろうか。

1) 今井むつみ、秋田喜美 言葉の本質:ことばはどう生まれ、進化したか」 2023 中公新書


2024年3月30日土曜日

医学情報をどう「接地」させるか:認知心理科学者のハルナッドが問う「記号接地問題」 AIがヒトに近づいているわけではなく、ヒトがAIに近づいている


マスクを付けたほうがいいのか、付けないほうがいいのかを一つの例に、情報収集し、考え、判断をして、実際の行動に結び付ける中で、主に医学情報がどのように使えるのか、あるいは使えないのかを中心に取り上げ、医学情報だけで決めることなどほとんど困難であることを示してきた。そこで医学以外のということで、言語学を取り上げてきた。今回も前回少し紹介した言語学の「記号接地問題」を軸に、いろいろ考えてみたい。

まずは「記号接地問題」を再び説明することから始めよう。「言語の本質」1)には、この問題は当初人工知能:AIの問題として。認知心理科学者スティーブン・ハルナッドが提唱したとある。ハルナッドは言う。「記号を別の記号で表現するだけでは、いつまでたってもことばの対象についての理解は得られない。ことばの意味を本当に理解するためには、まるごとの対象についての身体的な経験を持たなければならない」。

AIは体を持たない。身体に結び付かないことばは、ことばとして理解している、あるいはそのことばが表すものを知っていると言えるだろうか。そういう問いである。さらにその問いを広げていくと、AIだけでなく、身体を持つヒトもことばを知っているというためには、身体経験が必要だろうかと問う。

この問いにはとりあえず簡単に答えることができるように思う。AIはことばの意味を本当には知ってはいない。またヒトも多くの言葉を身体に接地することなく使っていることも多く、大部分の言葉を本当に理解しているとは言えない。ただそこには明確な違いがある。AIは言葉を接地させる身体を持たないが、ヒトは、接地させるかどうかは別として、接地させる身体を持っている点だ。

日々使っていることばは、モノの名前のように実体と身体がリンクして理解しているものがある一方、この連載で取り上げてきた医学情報では、「相対危険0.7」とか、「危険率0.03」とか、「統計学的に有意である」とか、ことばが抽象化して、身体的な結びつきがはっきりしないものも多い。そうした抽象的なことばの理解についていえば、AIがヒトに近づいているというより、ヒトが身体性を失って、AIの言葉の理解に近づいているのが実態ではないかという気がする。

たとえば「マスクが予防に有効というランダム化比較試験とそのメタ分析がある」ということばは、自分自身がマスクを付けていいのかどうか判断するための身体的経験を持たない中で、AIが理解するようにそのことばを理解しているのではないか。情報が人工知能のように、脳にだけ接地しているといってもいい。脳に心地よい接地が、そのことばを理解したとして、日々使うようになる。エビデンス偏重という現象の一面は、そんな風に説明できるかもしれない。

その反面、自分はマスクをしたことはないが感染していないとか、自分の周りにはマスクをしていて感染している人も多いという経験をしている人も少なからずいる。こうした経験はたやすく身体に接地して、マスクを付けても効果はないという判断をしているのかもしれない。こうした経験を通して身体化した判断には安定性がある。しかし、これは経験に基づいて、身体に接地したことばによる判断だからよいという風にも言い切れない。

また、自分の周りには、マスクしてもしなくても、感染する人としない人がいて、経験だけでは判断できないということもある。予防医療はそもそも身体に接地しにくい部分がある。そういう人もまた、抽象的な「マスクが予防に有効というランダム化比較試験とそのメタ分析がある」とか、逆に「マスクが予防に有効というランダム化比較試験とそのメタ分析はない」とかいう情報に基づいて、身体に接地しないままに判断している場合が多いだろう。身体に接地しない判断は不安定であるが、ただこれも悪いばかりではない。自分自身の経験だけでは判断できず、他人の経験まで取り込んで判断するというのは、もともと不安定な問題で、少なくともことばそのものの意味ではなく、そのことばが置かれた不安定さを身体化している面がある。

ここで明らかなことは、マスクを付けるにしろ、付けないにしろ、ことばを通して、考え、判断するしかないという状況である。そして、そのことばとして押し寄せる情報の束と、自分自身の経験をことばにしたものと、それらの経験が体に接地するか接地しないという点で、考えることで、とりあえずの判断を出すことができるかもしれない。さらには、判断を出すよりも、それによってさらに考え続けることができれば、それがもっとも重要なことではないかと考えている。

1)今井むつみ、秋田喜美 言葉の本質:ことばはどう生まれ、進化したか」 2023 中公新書


2024年3月11日月曜日

言語の本質 ことばの持つ身体性、記号接地問題

  今回もまた言語学から医学情報を読み解いていく続きである。前回、データと事実には大きなギャップがあり、データとその解釈にもさらに大きなギャップがある点を指摘した。そして、データもその解釈も、ことばや数字によって表される。ことばを使う以上、言語学が重要で、その文節の恣意性を認識することが助けになるというのがここまでの要約である。

そこで今日も言語学である。ただソシュールから離れて、むしろソシュールとは真逆の考え方ともいえる言語学に沿って、身体性という視点でのデータ、情報とことばの違いについて、いろいろ考えてみたい。今回のもとになった本は「言語の本質:ことばはどう生まれ、進化したか」1)である。

ソシュールの言語学では、「文節の恣意性」とともに「対応の恣意性」ということがある。例えば「いぬ」ということばの文字の並びと実際の犬の間には何の関連もなく、恣意的に対応しているだけということである。

この「対応の恣意性」に対して、痛みに関する「しくしく」とか「きりきり」というようなオノマトペは、その文字の並びと実際の痛みが単に恣意的に対応しているというよりは、実際の身体の痛みの経験と文字の並びに関連があるように思われる。ここには対応の恣意性以外の要素がある。このことをもう少し一般化すると、ことばの「身体性」ということだが、ことばだけで知っていることとばだけでなく、身をもって経験として知っていることばがあるということでもある。今回はこのことばの「身体性」をキーに、マスクの効果についての情報について考えてみる。

たとえば「マスクの効果についてはランダム化比較試験と観察研究を合わせたメタ分析で統計学的に有意な効果が示されている」という「ことば」の身体性についてである。ここに身体性はない。実際の効果との間に恣意的な対応があるにすぎない。医学論文にしろ、生データにしろ、情報の受け手の経験とは遠いところにある。実際の研究に参加した人でさえ、ある人はマスクを着けても感染し、ある人はマスクを着けなくても感染せずという部分が必ずあり、「統計学的に有意な効果」と真逆な身体的経験をしている。ことばと身体には関連があるというより、対応すらない。ここにあることばは、身体性があることばに対して、単なる情報に過ぎない。この身体性がある「ことば」と身体性を欠く「情報」を対比しながら、この先を進めよう。

多くの「情報」はことばを使っていながら、身体性をもたない。身をもってわかるということがない。しかし、「情報」に身体性がないとしても、この情報を自分の身に近づけないとうまく使えない。身体性があってもなくても、情報で使われる「ことば」=「記号」を身体に「接地」しなければいけない。これが「記号接地問題」である。

前回まで取り上げてきた言語の恣意性は、「身体性を持たないことば」の性質そのもののように思う。恣意的であるがゆえに「接地」しないことばである。恣意性の認識だけでは問題は解決しない。恣意性を認識したうえで、恣意性によって「接地」困難な「情報」をどう「接地」させるか、それが問題である。

 それでは具体的な話題に入ろう。マスクは無効と判断するという「接地」と、マスクは有効と判断する「接地」の違いがどこにあるのか。あるいはこの「接地」は見せかけで、本当は「接地」などしていないのかもしれない。どうもそれが現実である気がする。どちらも情報そのものを「接地」させて判断しているというより、その他の身体的経験によって、「接地」させているのではないだろうか。そうだとすると「情報」そのものの恣意性は大した問題ではないかもしれない。真の問題は「情報」を基に判断しているように見えて、その背後で動いている、個別の経験、状況ではないか。それこそ「情報」の真偽とはまるで対応しない恣意的な判断かもしれない。

参考文献

1)今井むつみ、秋田喜美 言葉の本質:ことばはどう生まれ、進化したか」 2023 中公新書


2024年3月1日金曜日

恣意性の程度問題: 研究の恣意性、研究の読み手の恣意性

 私のように医学論文ばかり紹介していると、論文ばかり見ないで事実を見ろという批判がある。統計学的に検討された医学論文と言えど、事実を見ていないのはこれまで指摘してきた通りだ。研究者側が勝手に有意水準5%という基準を設けて有効といっているに過ぎない。しかし、それに対して研究ばかりでなく生のデータを見ろという人が事実を見ているかどうかと言えば、それもまた文節の恣意性から自由ではない。そこには研究よりもさらに恣意的な面がある。だから恣意的であるといってもまだ研究の方が恣意性の程度が低い場合が多く、その恣意性を系統的に吟味することもできる部分もあり、私自身は医学研究の結果の方に肩入れすることが多い。

ただそれも程度の問題で、どちらかというとということだし、恣意性から自由でない点で、医学論文も観察結果の生データも、たいして違いはないとも思う。

 そこで最も問題になるのが、恣意性の背景にある学問、理論である。恣意性の議論のスタートが、背景の学問を言語学に移して考えるとということであったので、また話が振出しに戻ったように思われるかもしれない。そうかもしれない。ただ、今はあらゆる学問の背景には、学問自体の勝手な理屈があり、恣意性の問題を常に考えなくてはいけないという前提の共通認識がある。そのうえで背景の学問についてもう一度考えてみたい。

 医学論文も生のデータも統計学的に扱われるが、その統計学の恣意性の程度についてまず考えてみる。統計学は日常的に使われる言葉だけでなく、数字を使用すし、数学を用いる。数字の理解に恣意性が入り込む余地は、一般的な言葉に比べれば小さい。ただそうはいっても、10%の差を大きいとみるか小さいとみるかという解釈のレベルでは、解釈する側の恣意性から逃れられない。さらにその10%の差というのが、どんな計算に基づいているか、数字の解釈の側では不明なことも多い。この連載で利用した四則計算だけであれば何とか理解可能かもしれない。相対危険減少で10%であれば、大した効果でないと感じるし、絶対危険減少で10%なら、かなり大きな効果と思うというように。しかしそれ以上の複雑な数学が使われると、多くの人はその部分はブラックボックスになる。さらに統計学的検定、信頼区間の計算となると、多くの人は吟味が困難で、どう計算されているのか理解するのはむつかしい。私自身もそうである。「多変量解析で交絡因子を調整した」と書いてあれば、それを信用するしかない。危険率が5%未満、95%信頼区間がいくつといくつの間だと言われれば、そこに恣意性があると認識しつつ、とりあえずそう受け止めるしかない。

信用するかしないかの境目は、有効/無効の境目よりもさらにあいまいで、恣意性が高い。情報そのものよりも、解釈する自身の恣意性の方がはるかに大きいというのが一般的だ。そこには正しいか正しくないかというより、信じるか信じないかというまさに恣意的というしかない状況がある。論文にしろ、生データにしろ、情報そのものの恣意性も問題だが、それよりなにより、使い手自身の問題が一番大きいのだ。

ここ3回にわたって、ソシュールの「言語の文節の恣意性」を基盤に、いろいろ考えてきた。わけがわからない。そうだと思う。でも、現実はそういうことなのだ。確実なデータも判断もない。データと事実にはギャップがある。事実が言葉や数字ですべて表現できるわけではない。どういう言葉を選び、どんな数字で表すかという恣意性が必ず入り込む。さらにデータと人の判断にはさらに大きなギャップがある。事実が何かなんてわかり様がない。それが身も蓋もない結論だ。しかし、だからこそ考える価値がある。事実が容易に認識できて、それによって正しい判断ができるというなら、何も考えることはない。迷いもない。逆にそこに困難、迷いがあるからこそ考えることができるし、その意味があるのではないだろうか。


2024年2月12日月曜日

マスクの有効性を測る境目: 恣意的な境目が判断の基準になる

  今回は再びマスクが新型コロナ感染症予防に有効かどうかという話題に戻ろう。それはすでに決着済みの話題だという人がいる。ある人はコクランレビュー1)を引用して無効であるといい、ある人はコロナを対象に限った観察研究を含むメタ分析2)で有効であるという。決着済みという人たちが正反対の決着で対立している。これだけを取り上げても、マスクの有効性について決着済みということはできない。

この対立の決着について、どちらかが正しいかということだと思う人が大部分かもしれないが、それは決着ではない。ここでは対立自体が事実かどうかを問題にしているわけではない。事実は手の届かない別のところにある。事実を通した認識を言葉にすることによって、両者の立場が表現されるが、それはどこまで行っても立場の違いに過ぎない。つまりこの対立は、前回取り上げたソシュールの文節の恣意性を考慮すれば、当たり前のことである。どんな情報を基にしようとも、その情報による有効/無効の区別は事実そのものでなく、人間の側で勝手に有効/無効に区別された様々な境目のうちの一つでしかない。有効/無効の境目は恣意的にしか決められず、当然いろいろな境目を主張する人たちが出てくる。

境目は、人間の側が恣意的に分節しているだけ。そこに事実としてあるのは、100%有効から100%無効へ向かうなだらかなグラデーションだけである。マスクの効果は100%有効ということでもないが、100%無効ということでもない。なだらかな変化のその途中にある。ただなだらかな変化にそもそも境目はない。虹が実際には7色に分かれて見えないように、マスクの有効性も有効/無効の2色には見えない。ただそれを有意水準5%未満で統計学的に有意/有意でないというランダム化比較試験やそのメタ分析の恣意的な基準を研究者側が利用して、有効/無効という2色であるように見せかけているというのが事実である。そして情報の受け手も、その見せかけ通りに有効/無効のどちらかを信じ込まされている面がある。

 それではここでもう一度、マスク着用が無効というコクランレビューの結果と有効というメタ分析の結果を並べてみてみよう。この結果が事実の側にあるのではなく、人間側の言葉の文節の恣意性の側の問題であると意識してみるとどんな風に見えるだろうか。コロナ感染予防についての相対危険と95%信頼区間を下記に示した。

 コクランレビュー:相対危険1.01(0.72~1.42) p>0.05

 コロナに限ったメタ分析:相対危険0.47(0.29~0.75) p<0.05

相対危険はマスク着用群と非着用群を比較するための指標で、マスク着用群の感染者数を非着用群の感染者数で割ったものである。1の時に両群に差がない。1未満の時に有効、1以上の時に無効・有害という結果である。まずその数字だけを見れば、コロナとインフルエンザの両者を含むコクランレビューでは1.01と1以上で効果はなく、わずかに感染を増やすという結果である。下段のコロナに限ったメタ分析では、1未満でマスク着用の効果ありという結果である。相対危険に注目する恣意性の元では、方や無効、方や有効という正反対の結果である。

さらに有意水準5%で統計学的検定という恣意性でみても、上は危険率が5%以上で無効、下は5%未満で有効と、相対危険の数字で見たのと同じということになる。しかし、両者の信頼区間でみると0.72~0.75の範囲で重なっており、この重なり部分に注目した恣意性でみれば、30%近く感染を予防するという似たような結果を示しているのかもしれない。

またこの信頼区間は5%の確率で効果はこの範囲外にある可能性を示しており、上の研究結果でさえ相対危険で0.7程度、相対危険減少で30%以上感染者を減らす可能性を残している。またその逆に1.5倍以上感染者を増やす可能性も捨てきれない。下の統計学的に有効という研究結果では、少ないながらもその上限が1を超えているかもしれず、効果がない可能性もある。信頼区間の上限の外に注目するという恣意性の中では、この2つの結果はどちらも無効という風にも読める。同じ研究結果も、様々な視点で解釈することができ、そのさまざまな見方が可能ということは、そこに恣意性があるということである。

 一方の研究を取り上げても、両方の研究を取り上げるにしても、有効/無効のいずれかが正しいとすることなどできない。どちらも間違っているともいえるし、どちらも正しいともいえる。そしてそれは情報を見る側の問題であり、見るときの基準は、客観的どころか、恣意的なものである。統計学的な結果そのものであっても、統計学の外に出れば、様々な切り口がある。統計学だけが解釈の道具ではない。ソシュールの言語学に倣えば、有効/無効の区別は常に相対的なものになる。現実の世界に境目などない。境目は人間の脳の内にある。

参考文献

1) Jefferson T, et al. Physical interventions to interrupt or reduce the spread of respiratory viruses. Cochrane Database Syst Rev. 2023 Jan 30;1(1):CD006207. doi: 10.1002/14651858.CD006207.pub6. PMID: 36715243.

2) Talic S, et al. Effectiveness of public health measures in reducing the incidence of covid-19, SARS-CoV-2 transmission, and covid-19 mortality: systematic review and meta-analysis. BMJ. 2021 Nov 17;375:e068302. doi: 10.1136/bmj-2021-068302. Erratum in: BMJ. 2021 Dec 3;375:n2997. PMID: 34789505.


2024年1月29日月曜日

言語の恣意性:文節の恣意性と医学情報 血圧はいくつ以上が高血圧なのか

 有意水準5%と同様、どこから効果ありとするかも恣意的に決めるほかない

  反証主義の哲学と同様、研究結果をどう個人に役立てるかを考えたときに、もう一つ決定的な影響を受けたのが言語学である。今回からは言語学を通して、研究結果を個人にどう生かすかを考えてみたい。

 私自身の言語学との出会いは偶然である。医学部の低学年だったころだろうか。親しくもあり、いろいろ多くの影響を受けてきた高校の同級生と会った時に、言語学者のソシュールを勉強しているんだがとても面白いという話を聞き、それが何となく気になっていた。それと前後して、大学の書店に「構造と力:記号論を超えて」1)という哲学書が平積みにされていて、これも偶然、手に取ったというところだと思うが、さっぱりわからず、そこで出てきた「構造主義」とやらがソシュールの言語学が元になっていると理解し、ソシュールについて勉強したいと思ったのがきっかけであった。

そのとき読んだのは「ソシュールを読む」2)という本だったが、久し振りにその本を手に取ってみると、ページの角に折り目がつけられていたり、線が引いてあったり、書き込みがあったり、何か他の本とは違った読み方をしていたようだ。医学書で、線を引いた記憶はあるが、ページの角を折ったり、何か書き込んだりしたという記憶はない。医学書よりも気合を入れて読んでいる跡がうかがわれる。今から40年前のことである。

 その後、医学部の高学年になるにつれ、医学以外の勉強から離れ、ソシュールについての興味も疑問も忘れ去られていた。そのソシュールが、根拠に基づく医療:EBMを臨床の現場で使うという時に、再びよみがえった。今から30年前のことだ。そして、今回はそのことについて書きたいと思う。

ソシュールの言語学の重要な要素の一つに「言語の文節の恣意性」がある。「恣意性」とはあまり使われない言葉だが、客観的でなく、むしろ主観的に、勝手にという意味合いである。世界は世界の側で分けられているわけではなく、言語によって、人間が主観的に、勝手に分節しているということだ。文節というのも聞きなれないが、境目を設ける、単に分けることと思ってもいいだろう。

例えば虹について考えてみよう。日本において虹は7色と思われているし、虹を絵に描いたりすると、7色に分けて塗り分けたりする。しかし実際の虹はどうか。実際の虹は7色には分かれていない。なだらかなグラデーションで徐々に色が変化していくだけであって、7色に分けられるようなはっきりした境目はない。虹が7色だというのは実際の虹の話ではなく、人間の認識側の問題で、その境目は人工的に、言語によって作り上げているに過ぎない。それを言語の文節の恣意性と呼んだ。事実言語によっては、虹の色を2色だったり、5色だったりする。境目は認識の側で、恣意的に決められているのだ。

 この「文節の恣意性」を高血圧で考えてみる。現在では上の血圧140mmHg以上を高血圧とする場合が多いが、その反面、ハイリスクの人では130mmHgとする場合もあるし、テレビコマーシャルでは「血圧130は高めです」と繰り返し言っている。また過去をさかのぼれば、30年前は160mmHgが高血圧というほうが一般的であった。さらにそれ以前では、上の血圧180以上、下の血圧120以上という基準も存在する。

これは正常血圧と高血圧の境目が、まさに恣意的に決められているということだ。それは今の時点に限っても色々な基準があるし、過去からこれまでの変化を追えば、現在とは基準が大きく隔たっている。高血圧の基準は、客観的なものでなく、その時々の社会との関係によって決められた恣意的なものだ。

その恣意的な決定の背景にあるものの一つが、高血圧に関する臨床研究、特にランダム化比較試験の結果である。高血圧の最初のランダム化比較試験は、1960年代に報告された退役軍人を対象にしたものであるが、この研究で使われた高血圧の基準は下の血圧が115~129mmHgで、その後1980年代になって、上の血圧160mmH以上の人が対象になり、2000年以降になって、140mmHg以上を高血圧とした臨床試験が行われるようになっている。

そのそれぞれの研究で、血圧を下げることで脳卒中や心不全が少なくなることが示され、その都度基準となった高血圧の境目が、実際の高血圧の基準として用いられたのである。高血圧の基準は、効果を示したランダム化比較試験の高血圧の基準との関係において、恣意的に決まっているということだ。

さらにそれぞれのランダム化比較試験で治療効果が示されたかどうかもまた恣意的に決められている。これはこれまでさんざん示してきた統計学的有意差というものである。有意水準、平たく言えば治療薬がまぐれで勝ったか可能性が5%未満なら有効という基準である。この5%未満という基準も恣意的である。有効かどうかの境目もまた、高血圧の境目と同様に恣意的に決まっている。

そこでいったい何がわかったか。私の中で明確になったことは、EBMのプロセスに沿って、今から30年前「降圧薬を飲めば脳卒中を予防できる」という説明が、必ずしも客観的な情報に基づくものではないということ、さらにそもそも客観的な情報などどこにもなく、恣意的に決められた高血圧の基準によって定められた人たちを対象に、恣意的に決められた有意水準5%で有効と判定された研究によって、恣意的に判定されていたに過ぎないということ、である。「8%の脳卒中が5%に減るというのは薬が効くということなのか」という患者からの問いも、その恣意的な判断という意味では、統計学的に有効というのと同列なのである。

言葉を使う以上、科学的に決められた客観的な定義も、恣意的なものに過ぎない。問題はその恣意性の程度であり、恣意性に影響する周囲の状況、周囲との関係性である。そう明らかになったところで、論文結果をどう生かすかということがどういうことなのか、訳がわからなくなった。そしてそれは今も訳がわからないままである。しかし、そのわけのわからなさについて、さらに言語学を助けに考え続けたい。

参考文献

1) 浅田彰 構造と力 記号論を超えて 1983 勁草書房

2) 丸山慶三郎 ソシュールの思想 1983 岩浪セミナーブックス


2024年1月18日木曜日

言語の恣意性:文節の恣意性と医学情報 血圧はいくつ以上が高血圧なのか 有意水準5%と同様、どこから効果ありとするかも恣意的に決めるほかない

  反証主義の哲学と同様、研究結果をどう個人に役立てるかを考えたときに、もう一つ決定的な影響を受けたのが言語学である。今回からは言語学を通して、研究結果を個人にどう生かすかを考えてみたい。

 私自身の言語学との出会いは偶然である。医学部の低学年だったころだろうか。親しくもあり、いろいろ多くの影響を受けてきた高校の同級生と会った時に、言語学者のソシュールを勉強しているんだがとても面白いという話を聞き、それが何となく気になっていた。それと前後して、大学の書店に「構造と力:記号論を超えて」1)という哲学書が平積みにされていて、これも偶然、手に取ったというところだと思うが、さっぱりわからず、そこで出てきた「構造主義」とやらがソシュールの言語学が元になっていると理解し、ソシュールについて勉強したいと思ったのがきっかけであった。

そのとき読んだのは「ソシュールを読む」2)という本だったが、久し振りにその本を手に取ってみると、ページの角に折り目がつけられていたり、線が引いてあったり、書き込みがあったり、何か他の本とは違った読み方をしていたようだ。医学書で、線を引いた記憶はあるが、ページの角を折ったり、何か書き込んだりしたという記憶はない。医学書よりも気合を入れて読んでいる跡がうかがわれる。今から40年前のことである。

 その後、医学部の高学年になるにつれ、医学以外の勉強から離れ、ソシュールについての興味も疑問も忘れ去られていた。そのソシュールが、根拠に基づく医療:EBMを臨床の現場で使うという時に、再びよみがえった。今から30年前のことだ。そして、今回はそのことについて書きたいと思う。

ソシュールの言語学の重要な要素の一つに「言語の文節の恣意性」がある。「恣意性」とはあまり使われない言葉だが、客観的でなく、むしろ主観的に、勝手にという意味合いである。世界は世界の側で分けられているわけではなく、言語によって、人間が主観的に、勝手に分節しているということだ。文節というのも聞きなれないが、境目を設ける、単に分けることと思ってもいいだろう。

例えば虹について考えてみよう。日本において虹は7色と思われているし、虹を絵に描いたりすると、7色に分けて塗り分けたりする。しかし実際の虹はどうか。実際の虹は7色には分かれていない。なだらかなグラデーションで徐々に色が変化していくだけであって、7色に分けられるようなはっきりした境目はない。虹が7色だというのは実際の虹の話ではなく、人間の認識側の問題で、その境目は人工的に、言語によって作り上げているに過ぎない。それを言語の文節の恣意性と呼んだ。事実言語によっては、虹の色を2色だったり、5色だったりする。境目は認識の側で、恣意的に決められているのだ。

 この「文節の恣意性」を高血圧で考えてみる。現在では上の血圧140mmHg以上を高血圧とする場合が多いが、その反面、ハイリスクの人では130mmHgとする場合もあるし、テレビコマーシャルでは「血圧130は高めです」と繰り返し言っている。また過去をさかのぼれば、30年前は160mmHgが高血圧というほうが一般的であった。さらにそれ以前では、上の血圧180以上、下の血圧120以上という基準も存在する。

これは正常血圧と高血圧の境目が、まさに恣意的に決められているということだ。それは今の時点に限っても色々な基準があるし、過去からこれまでの変化を追えば、現在とは基準が大きく隔たっている。高血圧の基準は、客観的なものでなく、その時々の社会との関係によって決められた恣意的なものだ。

その恣意的な決定の背景にあるものの一つが、高血圧に関する臨床研究、特にランダム化比較試験の結果である。高血圧の最初のランダム化比較試験は、1960年代に報告された退役軍人を対象にしたものであるが、この研究で使われた高血圧の基準は下の血圧が115~129mmHgで、その後1980年代になって、上の血圧160mmH以上の人が対象になり、2000年以降になって、140mmHg以上を高血圧とした臨床試験が行われるようになっている。

そのそれぞれの研究で、血圧を下げることで脳卒中や心不全が少なくなることが示され、その都度基準となった高血圧の境目が、実際の高血圧の基準として用いられたのである。高血圧の基準は、効果を示したランダム化比較試験の高血圧の基準との関係において、恣意的に決まっているということだ。

さらにそれぞれのランダム化比較試験で治療効果が示されたかどうかもまた恣意的に決められている。これはこれまでさんざん示してきた統計学的有意差というものである。有意水準、平たく言えば治療薬がまぐれで勝ったか可能性が5%未満なら有効という基準である。この5%未満という基準も恣意的である。有効かどうかの境目もまた、高血圧の境目と同様に恣意的に決まっている。

そこでいったい何がわかったか。私の中で明確になったことは、EBMのプロセスに沿って、今から30年前「降圧薬を飲めば脳卒中を予防できる」という説明が、必ずしも客観的な情報に基づくものではないということ、さらにそもそも客観的な情報などどこにもなく、恣意的に決められた高血圧の基準によって定められた人たちを対象に、恣意的に決められた有意水準5%で有効と判定された研究によって、恣意的に判定されていたに過ぎないということ、である。「8%の脳卒中が5%に減るというのは薬が効くということなのか」という患者からの問いも、その恣意的な判断という意味では、統計学的に有効というのと同列なのである。

言葉を使う以上、科学的に決められた客観的な定義も、恣意的なものに過ぎない。問題はその恣意性の程度であり、恣意性に影響する周囲の状況、周囲との関係性である。そう明らかになったところで、論文結果をどう生かすかということがどういうことなのか、訳がわからなくなった。そしてそれは今も訳がわからないままである。しかし、そのわけのわからなさについて、さらに言語学を助けに考え続けたい。

参考文献

1) 浅田彰 構造と力 記号論を超えて 1983 勁草書房

2) 丸山慶三郎 ソシュールの思想 1983 岩浪セミナーブックス

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この原稿が発端となり連載が中止になった。

「私自身の言語学との出会いは偶然である。医学部の低学年だったころだろうか。親しくもあり、いろいろ多くの影響を受けてきた高校の同級生と会った時に、言語学者のソシュールを勉強しているんだがとても面白いという話を聞き、それが何となく気になっていた。それと前後して、大学の書店に「構造と力:記号論を超えて」1)という哲学書が平積みにされていて、これも偶然、手に取ったというところだと思うが、さっぱりわからず、そこで出てきた「構造主義」とやらがソシュールの言語学が元になっていると理解し、ソシュールについて勉強したいと思ったのがきっかけであった。」

上記の部分は単に私の経験に過ぎず、これはブログではないので前半部分は削除するという編集者に対して、削除を拒否、削除するなら連載終了でと反応したところ、それなら連載終了でということになった。

専門的過ぎる、わかりにくい、個人的な経験を書くな。

まあ何とかして私から連載をやめたいと言わせようとしていたのかもしれない。

で、結局編集者の言うように、原稿はブログになったわけだ。

ただこの部分はこの先の原稿とリンクしていて削除するわけにはいかない。

どうリンクするるかは、またこの先のブログで。

2024年1月12日金曜日

反証可能性と社会:有意水準5%をコインと野球の日本シリーズで考える

統計学的に医療行為が有効かどうか決める場合の有意水準についての話である。前回も書いたようにこの基準は5%未満の間違いは許容しようというものだ。この5%がどれほどに厳しい、あるいは緩い基準なのか、数字だけを眺めてみてもよくわからないというのが正直な反応だろう。そのあいまいさを日常的な出来事を例に説明してみたい。反証可能性を日常に落とし込んで説明しようというわけである。

以前デンマークで行われたランダム化比較試験の結果は、以下のように示されている。

絶対リスク減少 -0.3%、95%信頼区間-1.2~0.4、危険率0.38

相対危険 0.82,95%信頼区間0.54~1.23、危険率0.33

いずれも危険率が有意水準0.05,5%を上回っており、統計学的に有意な差は認められなかったという結果である。危険率とは差がないという仮説の正しさだ。つまり差があるという仮説の正しさは危険率を1から引くことで求められるが、これは絶対リスク減少では62%の確率で差がある方が正しいかもしれないし、相対危険では67%で正しいかもしれないという結果である。効果があるかないかという視点だけで見れば効果がある確率の方が高いのである。ただ効果が五分五分に近いようでは緩すぎる。そこで差がある仮説の正しさが95%、間違いの確率が5%に地点を基準しようというのが、医学論文では伝統的に採用されてきた。ここに科学的な基準はない。

そこでこの有意水準5%を日常に落とし込んで考えてみる。まずはスポーツのコートを選ぶかサーブを選ぶかをコイントスで決める状況を考えよう。ここでは紺の裏表がそれぞれ1/2の確率で出るコインでなければ公平とは言えない。このコインが公平なコインであるか判断するためにどうすればよいか。このコインを2回投げた時、2回とも表が出たとしよう。ここで表が出やすいコインかもしれないというふうに考えて、その確率を計算してみる。表の出る確率も裏の出る確率も等しく1/2だとすると、2回続けて表が出る確率は1/2×1/2=1/4、25%である。有意水準5%よりかなり大きい。そこでもう1回振ってみたところやはり表が出たとしよう。日常的にはこのあたりでもうこのコインは表が出やすいと判断するかもしれないが、この3回続けて表が出る確率は1/2×1/2×1/2=1/8、12.5%で5%よりまだ大きい。それでは4回続けて表ならどうか。1/2の4乗で1/16=6.25%とかなり5%に近づくが、まだ統計学的に有意な表が出るコインとは言えない。さらにコインを投げ続けて5回目もまた表だった時に1/32=3.125%とようやく有意水準5%を下回り、統計学的にも表が出やすいコインという判断になるのである。

それではもう一つ、野球の日本シリーズでも同様に考えてみる。今年の阪神、オリックスの日本シリーズは4勝3敗までもつれたが、これは統計学的に言うとどういうことなのか。阪神とオリックスの間に統計学的に有意な強さの差があるかどうかである。

まず阪神の方が何連勝したら統計学的にオリックスより強いと言えるか。コインの例でみたように5連勝しなければ統計学的にオリックスより強いとは言えない。両者に差がないとして、5連勝する確率は、1/2の5乗で3.125%である。4勝3敗では統計学的に阪神が強いとは言えないのである。さらにオリックスが何連勝したらオリックスの方が強いかも合わせて考えれば、同様に5連勝である。この確率も3.125%なので、どちらが強いかわからない前提で考えているので、両者を足すと6.25%と5%を超えてしまう。つまりどちらが強いかわからない状況で、一方の方が統計学的に強いというためにはどちらかが6連勝しなければ、有意水準5%で強さに差があるとは言えないということだ。

実際にどちらかが6連勝するまで戦い続ける日本シリーズを考えてみよう。おそらくなかなか決着はつかないに違いない。そういう意味ではかなり厳しい基準だといえる。逆に厳しすぎて差を見逃しているかもしれないと考える必要がある。

もう一度デンマークのランダム化比較試験の結果を見てみよう。危険率が30%を超えているので、マスクを着ける推奨がつけない推奨と比べて、2回続けて有効という結果を出すほどの差ではないということである。それでも4勝3敗で勝つ可能性は残る。そんなふうに考えると、この結果はなかなか悩ましい。4勝3敗でも勝ったと喜ぶ日本シリーズに対応させて言えば、デンマークの研究結果はマスクが勝ったということになる。4勝3敗で勝っても、勝った勝ったと喜ぶのが日常である。

日常的に差があると考えていることの中には、統計学を適応すればほとんど差がないと判断されるようなことが多い。このことは心にとめておいてもいいと思う。大体のことに大きな差はないのである。


2024年1月5日金曜日

 

反証可能性と統計学的手法

有意水準と検出力

 

 私の書くものに対して、「結局何を言いたいのかわからない」という批判がしばしば寄せられる。マスクの着用に関しても書いてきたこともその通りだと思う。結局どうすればよいかについては書いていない。根拠に基づく医療:EBMについて講演した後の質問でも同様だ。「結局あなたは治療を勧めるんですか、勧めないんですか?」と聞かれることも多い。

 この質問に対する私の回答は明確だ。「それをあなた自身が考えるための手法がEBMです。ご自身で考えてみてください」ということである。この連載も同じである。判断するより、調べよう、考え続けよう、そういうことを繰り返し書いてきた。 

判断というのは考えることをやめることでもある。判断と思考停止はどこが違うのか。思考停止は判断の一部である。そうしなければ判断できない。しかし、それは思考の一旦停止に過ぎない。判断はあくまで暫定的なものである。科学的な視点で言えば、「反証可能性」が科学を担保している。一旦正しいとされても、それが反証の余地を残していることが科学の要件であるという哲学者がいる。カール・ポパーである。

「反証可能性」が科学と科学でないものを区別するということについて、少し説明を加えよう。例えば「神は存在するか」という疑問に対して、「神はいる」「神はいない」とどちらをとるにしても、それを反証する手立てがない。これは科学的な言明ではない。信じるか信じないかというのは科学的言明ではないといってもいい。それに対して、「すべてのカラスは黒い」というのはどうか。これは「白いカラス」が発見されることによって反証される。したがってこれは科学的言明ということになる。

何かおかしな感じがするだろう。帰納法によって、「カラスは黒い」という観察の繰り返しが科学の正しさを支えているにもかかわらず、それが同時に、白いカラスの出現で反証され正しくないということになるのが科学だというのだ。これはある意味帰納法の否定である。統計学は機能的な手続きの代表である。ポパーの反証主義は統計学の否定という側面がある。しかしそうではない。統計学はこの反証主義を取り込むことによってこそ成り立っている。「有意水準」というものである。差があるという結果が間違っている可能性を許容する基準、あるいは検討する医療行為がまぐれでいいと出てしまった可能性をどこまで許するかといってもよい。学論文では通常5%が採用される。つまり統計学的に有意な効果を示した研究であっても、5%はは反証可能性が残っているということである。統計学は反証主義に反するどころか反証主義そのものなのである。

これに対して、効果がないという結果が示されたときにはどのように考えるか。これに対しては「検出力」という基準がある。有意水準は差がないときに差があるとしてしまう間違いでαエラーをも言われる。それに対して差があるときに誤ってないとしてしまうこともある。この間違いをβエラーという。これは有意水準より緩く、10%に設定されることが多い。差を見つけるために研究するという方向のバイアスに対して、間違って見つけるエラーに厳しく、間違って差を見逃すエラーには緩くなっているという背景がある。そのβエラーを1から引いたものが検出力である。差があるときに差があるといえる確率である。βエラーを10%に設定すれば検出力は90%になる。ここにも反証可能性が担保されている 

私が判断を避けて書き続けることに対して、「結論は出ている」と思う人が多いかもしれない。しかしそれは科学的な態度ではない。ましてや統計学的な検討には常に「反証可能性」がある。思考を停止しないためには、判断した後も考え続けなければいけない。科学的思考には一旦停止があるだけである。むしろ必要なのは判断停止の方である。

 マスクに対して結論が出ていると考える人も、もう一度その判断を停止して、勉強を継続するといいのではないだろうか。

2023年12月28日木曜日

個人の問題と公共の問題 :医療以外の問題に目を向ける

 

個人の問題と公共の問題

医療以外の問題に目を向ける

 

 マスク着用の効果を検討した論文を元に、医学情報をどう個人に役立てるか、あるいは学校に対して情報をどう届けるかなどを例に、情報の具体的な利用方法や、その困難さについて取り上げてきた。

妥当性の高い医学論文があれば、どうすればよいかは明らかになると考える人が多いかもしれないが、そんな単純な問題ではないことを、この連載で繰り返し指摘してきた。ただそれに対して、マスクはつけた方がいいのか、つけない方がいいのかという判断を求める意見があることは十分承知している。

しかし、つけた方がいいのか、どうなのか、はっきりしないことは、実際の医学論文を読み込んでいけば明らかである。ただその医学論文を「統計学的に有意な差」があるかどうかという点に限って評価をした時に、そのことに限って言えば効果があると、その狭い学問の中ではっきりさせたというだけである。さらにそこで使われる基準は5%の誤りは許容しようというあいまいなものである。5%の背景を数字で説明することは困難だ。統計学そのものが数字だけで説明できるわけではない。

 

上記のようなことを考えながら日々の診療をし、2014年に「健康第一は間違っている」1)という本を書いた。その本に書いた結論めいたことを自分なりに要約してみる。

 

世界一の長寿を達成したにも関わらず、健康欲望にはキリがない。さらなる健康を目指すより、健康欲望をコントロールし、それにキリをつけることの方が幸せにつながるのではないか。また高齢になるほど、医療の効果は微妙になり、医療から受ける恩恵は小さくなる。さらにその恩恵も確率的にしか示すことができず、個人に対する効果を予測することは困難だ。高齢者にとって医療は賭けである。健康長寿をもたらす確実な方法などない。うまく行かないことも受け入れ、上手に賭けることを考えた方がいいのではないか。さらには自分自身のことより、次の世代に引き継ぎ、若者に譲っていくことを考えるのもいいのではないか。

 

上記の考えに至るまでに、多くの医学論文を読み込んだことが背景になっている。その影響を端的に言えば、医学論文を読み込んでも、目の前の患者にどうしたらよいかはわからないということである。

 数字を多面的に見ること。統計学的に見るだけでなく。数字もまた社会学的に見ることはできるし、人類学的に、倫理的に見ることも可能だ。哲学的にミルkだって同様だ。さらに数字だけでは表すことができないことも多い。むしろ数字では一部のことしか表現することができない。医学論文のなかにも、質的研究という数字を用いない研究手法もある。

そのような多様な学問背景のうち、治療や予防効果を測る数字や手法、統計学的な有意差について改めて考え直す大きなきっかけとなったのが、実は科学哲学、具体的にはポパーの反証主義と言語学、特にソシュールの言語学であった。次回からは統計学と科学哲学、言語学のつながりから、集団に対するデータの個人への適用について、さらに考えを進めたい。

 

参考文献

1)     名郷直樹 健康第一は間違っている 2014 筑摩書房


自著の宣伝に使われては困るといわれた原稿です。

 

2023年12月21日木曜日

 論文で取り扱われていないアウトカム

医療を受けて幸せになるかどうか

 どんなに妥当性の高い信頼に足る医学研究があっても、実際に現場の判断は困難で、医学的という観点からだけでも複雑であることについて、繰り返し取り上げてきた。さらには医学以外の問題も加えてとなると、その困難はさらに大きくなる。ここから先はその医学以外の問題を加えてどう判断すべきかについて考えたいが、その医学以外の問題を考慮するにあたって、もう一度医学研究の限界について明らかにしておきたい。

医学研究で医療行為の効果を測るにあたって、評価されるのはコロナに感染するかどうか、入院が必要になるかどうか、重症化するかどうか、人工呼吸やECMOが必要になるかどうか、さらには死亡が避けられるかどうかなどある。しかし、そうした医学的な問題は、全体として「幸せになるかどうか」ということを無視している面がある。

具体的言えば、出来るだけ外出を控え、誰とも会わず、外出時はマスクをして、副作用の危険を心配しながらワクチンを打ち、コロナ感染が予防できたのに、全然幸せじゃないし、むしろ不幸だという状況である。ここに医学研究の最大の限界がある。マスクの効果にしろ、ワクチンの効果にしろ、抗ウイルス薬などの治療薬の効果にしても、幸せになるかどうかという視点で研究するのはとても困難で、ある意味「仕方なく」、感染予防ができるかどうか、重症化しないかどうか、死を避けることができるかどうかで評価しているのである。

もちろん幸せを指標化して評価するというのも可能ではあるが、幸せは個別の要素が大きく、平均的な効果と個別の患者のギャップが大きすぎて、現場での利用がさらにむつかしい。

コロナで死ぬというのも、幸せということに繋げれば、高齢者にとっては順番を守って死ぬいい機会だというふうに思う高齢者もいるだろう。むしろそういう多様性が受け入れられることの方が幸せな社会ということだったりする。ほとんどの人がコロナにかかりたくない、重症化は避けたい、重症化したら人工呼吸器やECMOの治療を受けたい、死ぬのは避けたいという世の中は、それはそれで息苦しい面もある。 

さらにSNSでのマスクやワクチンについての発言を見ていると、まるでデマとしか言いようのない情報を信じて、妥当性の高い医学研究を誤解している人たちの方が、だいたい元気で、幸せそうに見える。幸せと正しい/正しくないには相当なギャップがあるし、そもそも関係ないという気もする。間違っていても幸せということはいくらでもある。死ぬまで騙されていれば、それで解決という風にも考えられる。 

正しい/正しくないより、信じる/信じないというのが世の王道である。「信じる者は救われる」ということかもしれない。医学的に正しい/正しくないにしても、結局医学を信じる/信じないかという同じ問題に過ぎないような気もする。 

しかし、信じる/信じないというだけでなく、信仰そのものを持たないという選択肢がある。この連載で取り上げたいのはそういうことでもある。

信じる/信じないだけでなく、そうかといって正しい/正しくないだけでもない方向性。医学研究なしに判断することも困難だし、医学研究だけで判断することなどできないというのが現実に沿った方向性である。

そこで、社会学、人類学、哲学、政治学、倫理学などが必要となる。それはそれでまたより大きな困難を抱えるということでもあるが、医学研究なしに判断することができないように、これらの学問的知見を無視して判断することもできない。そうした困難に対して、話題を医学以外の領域へも向けて、引き続き考え続けたい。

 

2023年12月20日水曜日

発言するなと言われたけれど、何も発言していなかったこと

 振り返ってみると、福島の甲状腺がんの問題について、論座の投稿、2019のブログ以降発言したことはなかった。むしろその方が問題だった。それを今頃になって「発言するな」と津田さんがコメントを寄せたのはどういうことなのか。こっちは全然発言してなかったのに。何か起きているのかもしれないけど、何が起きているのかわからない。

さらに、津田さんが甲状腺がんの過剰診断について発言している資料は見つからない。

訳が分からない。

改めて発言しておく。

すでに検診は行われてしまった。見つかった甲状腺がんの患者のフォローが大事。個別の人たちへの個別の相談が重要。検診を直ちにやめた方がいい。検査をするかどうかは個別に相談して決めるべき。その意見に変わりない。

2023年12月17日日曜日

その後の議論の資料は昔読んでいたらしい

 津田さんのその後の発言

tits_22_4_19 (jst.go.jp)

私のHDにあったものなので、読んだのだろうけど記憶にない。

改めて読む。

私とは別世界に住んでおられる。

ダウンロードは2019年。

論文の内的妥当性の話ばかりしていて、健診を受けた個別の人でどんなことが起こるかには触れていない。そこで困ってるというのが現実だが、そういうことが全然わかっていないのではないだろうか。

津田さんは公衆衛生の専門家であって、臨床の専門家ではないので、そこは発言しないということかもしれない。それであれば臨床家の意見を封じるのではなく、聞いた方がいいでしょう。

論座に書いたのも、ブログに書いたのも、別に公衆衛生の専門家として書いたわけじゃない。そんなことは考えてもいない。

ただ一言言っておこう。

津田さんは臨床の専門家ではない。でも臨床について発言してもいいですよ。

私のような非専門家が、福島で被爆した子供であって、甲状腺がんが見つかり、過剰診断について勉強して、検診なんか受けなければよかったと言ったら、どうこたえるか、それについて彼の意見を求めたい。

ぜひ発言してほしい。

津田さんの論文を読んでみた

 津田さんの論文とその後の議論を読んでみた。

Thyroid Cancer Detection by Ultrasound Among Residents Ages 18 Years and Younger in Fukushima, Japan: 2011 to 2014 - PubMed (nih.gov)

被ばくによって甲状腺がんが増加していると。

ただそれをどう個人に説明するかの議論はない。

もちろんそれは論文の外のことかもしれない。

しかし、外的妥当性の議論は重要だ。

彼はEBMのステップ4について無知だと思う。

過剰診断についてどう説明するのか。

乳がんについてその議論は尽きていると。

どう尽きているのか聞きたい。

津田さんが専門家だというなら、非専門家である私の発言を封じるのではなく、説明責任があるのではないだろうか。


2023年12月15日金曜日

4年ぶりの投稿:日刊ゲンダイの連載を終了して、その後

 これはブログではないという編集者から批判とともに日刊ゲンダイの連載が終了し、どこかで続きをやれないかと思案していたところ、それこそブログでどうかというおすすめもあり、数年ぶりに自分のブログを訪ねてみた。

 そこには今年の春にコメントがあり、今度は「公的メディアで「専門知識があるかのように」述べるのはやめるべきです。」だと。

 「専門知識があるかのように」というのだから、私には「それがない」という指摘の上に、さらに「述べるのはやめるべき」だと。

 また、今回は一般人である編集者から、「専門的すぎる」、あげくのはては「ブログではないので個人的な経験は削除」と言われて連載終了。

 私は一般人でも専門家でもなく、いったい何者か。

 少なくとも津田さんのように専門家と非専門家を区別できるわけでもないし、編集者のように専門的と非専門的を区別できるわけではない。

 津田さん個人については何も知らないが、大学教授という肩書を見るに、立派な人なのでしょう。立派がどういうことなのか、よく知らない私ですが。

 これまでも大学教授からはいろいろな批判を受けた。

難病の研究班だったかでEBMを紹介したときに「教授を集めて聞かせるような話でない」

学会の講演が終わるなり、シンポジウムの座長が「理事長、何か言いたいことがあるでしょう。ディスカッションの前に、お願いします」というと理事長が、ディスカッションの時間をつぶして「検診事業を邪魔する奴は許さん」と

別の学会でも、講演が終わるなり「お前は論文ばかり読んでないでちゃんと診察しろ」

さらに産業医講習会の参加者として、女性のホルモン補充療法のランダム化比較試験のネガティブな結果について、この結果を受けて補充療法をどうすべきかと質問したら、「私は続ける。あなたは好きなようにすればいい」。「好きなようにしてるのはあなたですよ」と小声で反論。聞こえてないだろうけど。

教授じゃないものを含めれば、きりがない。

でもそれはとても愉快な経験だった。

血沸き肉躍るというか。田舎の診療所長の肩書で、大学教授を怒らせる。痛快だった。

そのうちEBMの専門家として見られるようになり、いろいろ話すと、褒められたり、礼を言われるようになった。話してくれとか、書いてくれとかいう依頼もたくさん来た。

そこで30年が過ぎた。開業医として10年働き、2年前に引退した。都市部のクリニックの名誉院長という肩書。田舎の診療所長から多少は出世したか。そうでもない気がする。

再び大学教授から「専門家であるように述べるな」

また愉快なことになってきた。

30年前を蒸し返したい。

でも少し事情が違う。

 編集者は、タブロイド紙とはいえ、私の原稿を数年にわたって掲載してくれた、私の書くことをよく知っている編集者だった。その編集者から、一般向けの原稿ではないと批判される。というところだが、変わったのは私なのか、彼なのか、それとも両方か。はたまた社会なのか。もはや私は一般人でもなく、専門家でもない。

 とブログに書いているのだが、差し当たって連載内容と直接関係はなく、間接的には関係があるかもしれない。

連載の原稿はまたそのうち。

2019年7月13日土曜日

がん検診はどれほど有効か

今行われているがん検診はどれほど有効なのだろうか。がん検診をすればがんで死ぬ人はいないくなり、がん検診をしない人はがんになるとみんな死んでしまうのだろうか。

例えば乳がんで見てみよう。
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/?term=23737396の乳がん検診についてのランダム化比較試験のメタ分析である。

13年の追跡の結果、がん検診をしない群の乳がん死亡が0.43%、がん検診群の乳がん死亡率が0.36%である。四捨五入すれば、どちらも0.4%と差がわからなくなる。
もちろんこれは統計学的に有意に乳がん死亡を減らしたという結果ではあるが、実際の数字を見てみると、こういう効果なのである。

がん検診による害の問題がいかに重要か、わかるのではないだろうか。
診断閾値で対処するというようなことがいかに荒唐無稽なことであるか、一目瞭然である。

予想されるがん検診の効果は、直感的な効果よりはるかに小さく、害の危険ははるかに大きい。まずはこういう一般論を押さえたうえで、がん検診の議論はなされなければいけない。

この件に関してはひとまずこれで終わりたい。

福島の甲状腺がん検診が直ちに中止され、個別の相談へ引き継がれることを切に望む。


理解しがたい思考

がん検診の害について、いろいろ吟味してきた。害があるということについての異論はないようだ。少なくとも教科書に書いてあるレベルでは理解されている。ただその害ががんの性質やがんになった人側の問題だけでなく、エコロジカルに決まっているということを理解するのは難しいようだ。その辺は十分理解できる。

がん検診を受けるか受けないか迷うような患者に対し、がん検診の害をエコロジカルなレベルで日々説明している医者にはほとんどであったことがないし、私自身もそういう説明をするのはごくごく限られたときだ。個別の臨床の現場でも理解してもらうのがなかなかむつかしい。

しかしすぐわかりそうな簡単と思うようなことで壁にぶち当たる。

がん検診をするとがんが見つかる。当たり前のことだ。進行した状態で見つかることもある。それも当然だ。しかし、検診を進めるべきだという人の中に、こんな進行したがんが見つかるんですよ、こんながんの死亡例があるんですよ。そういう事実を知ってますか。というように言ってくる人がたくさんいる。これはなぞだ。彼らは何が言いたいのだろうか。

進行したがんが見つかるから検診が必要、そんなナイーブな論理でがん検診を進めたほうがいいという人は、さすがにいないのではないか。害の問題も認識できているし、と思うのだが、どうもそうではない。

例えば乳がん検診をすると、乳がんが見つかるし、前立腺がん検診をすると、前立腺がんが見つかる。その中に進行したものも含まれる。そのがんによって死に至る人もいる。しかし、それは何一つがん検診を正当化しない。それは単に検診をするとがんが見るかるということだし、がんという限り、進行するし、死に至らしめる。たったそれだけのことがどうも理解されていない。不思議なことだが、そういう状況になっている。

こんな進行したがんが見つかるのだから、がん死に結び付く進行の早いがんが報告されているのだから、というのはがんを見つけるということと同じことで、だから検診が必要ということには決してならない。

それともう一つ。

がんを検診で見つけないと助けることができないということはない。検診以外で見つけてもいくらでも助けることができる。当たり前のことだが。しかし、検診を進めるべきという人の中には、どうもそう思っていない節がある。

検診を勧めようとしている人たちの一部は、検診しないと助けられないというふうに思っている人がいるようだ。不思議だ。そこにあるのはどういう理屈なのか。

で、私はこれは理屈ではなく、早期発見早期治療病にかかっていると診断するのだが、この病気の特徴は病識がないことである。
この病気をどう認識させるか、それが当面の宿題である。

過剰診断が起きているところ

これは子供を対象にした問題だ、というところが大きな壁になっている。

過剰診断も高齢者や別の病気を持っているところで起きやすいというところにフォーカスして、子供には当てはまらないと。

いつ治療を始めようが結果が変わらないと過剰診断になってしまうというようなところに関心が向かない。しかし、そうした過剰診断は子供にとってこそ重要だ。10歳で治療しても20歳で治療しても同様なら、20歳のほうがいいでしょう、というような場合は、高齢者より差が明らかだ。がん患者として日々生活する10代とそうでない20代の差は70代と80代の差よりはるかにはっきりしている。子供であるからこそ過剰診断の害が大きいのである。

前回のポイントにつなげて言えば、過剰診断の害もがんの性質だけではなくてエコロジカルにしか決まらない。

しかし今回書こうとしているのはそういうことではない。

何より認識の違いは、原発事故があったということ自体が、とてつもない過剰診断を生む根本的な原因で、それは被曝による甲状腺がんの危険よりはるかに大きいことが予想されると考えるか、その部分をあまり考えないかということにある。
前者で考えれば、とにかく無理に甲状腺がんを見つけないことこそ重要。見つけたうえで診断閾値をどうするかなんてことは全く問題にならないと考える。ましてやエコーのような精密な機械で見た時に、どこに診断閾値を置くかというような問題は、原発事故後に甲状腺がんを心配するために生じる過剰診断という今まで経験したことがないような大きな過剰診断の危機を心配するものにとって、全くお話にならないということになる。

そこでとにかく検診をして甲状腺がんを見逃さないという極端と、何もしないほうがいいという極端の間で、現状は過剰診断をできるだけ避けるような方法で検診を継続するというところで現実が進んでいる。

既に福島では、甲状腺がんを心配しない子供を持つ親のほうが少なくなってしまって、過剰診断がこの時点ですでに猛烈に増えている。

今の状況は、放っておいても日々過剰診断が続々と出てしまう。被曝量が少ない地域で見つかるものはいかなる診断閾値を採用しても大部分は過剰診断だ。都内でも甲状腺がん検診が行われ、それも同様に過剰診断ばかりしている可能性が高い。

原発事故こそが過剰診断の最大の温床である。過剰診断は、検診をしなくてももうすでに起きてしまっていて、検診を行うかどうかすら問題ではない。検診を行わなくても起こる過剰診断にも配慮が必要なのである。

そして、子供が対象であるからこそ、その過剰診断こそ最も問題にしなくてはいけないと思っているのだ。

だから、重要なことは個別の相談であって、検診ではない。


2019年7月12日金曜日

過剰診断の「進行しない」性質について

がんの過剰診断は理解されにくい。それはある面仕方がない。
「進行しない」がんというと、「進行しない」という性質はがんに属するものだとまず思うからだ。しかしこの「進行しない」という性質は、がんだけに属するものではない。
どういうことか。

例えば、生物学的にまったく同じ性質を持つ二つのがんが、全く健康な50歳にできた場合と、慢性の病気を持った同い年の人にできた場合を考えてみる。がんの生物学的な振る舞いが同じとしても、前者は70歳でがんで死に、後者は50歳で元の病気で死んだとしよう。前者は過剰診断でなく、後者は過剰診断になる。生物学的には全く同じがんが、である。

もう一つ例を挙げよう。
同様に生物学的に全く同じがんが、全く健康な50歳にできた場合と、現在の全く健康な50歳にできた場合を比較してみる。前者は55歳の時に無症状のまま検診で発見し、即座に治療をして、80歳で別の病気で亡くなった。後者は70歳の時に体調不良で受診した際に受診してがんの診断を受け、治療をして、80歳で別の病気で亡くなった。この例は遅く見つかったのに寿命が同じなんておかしい、と思う人がいるかもしれない。しかし、その考えこそが必ずしも正しいとは限らない。

一つはこのがんが放置した時でもがんの発生から死に至るまで40年かかるがんだった場合である。この場合は前者後者とも、過剰診断かもしれない。これはがんの進行が極めて遅いというがん側の生物学的な性質によって、両者が過剰診断になっている。

もう一つは、放っておくとどちらもがんで死んでしまう進行の早いがんである。しかし、前者の人が治療を受けてから、後者の人が治療を受けるまでに治療が大幅に進歩し、15年後でも治療で治癒してしまう時代になると、前者が過剰診断になっている。ここでも、生物学的には同じがんが、前者では過剰診断、後者では過剰診断になっていない。

ここではもう一つの場合があるが、それが論座で紹介した、遅く見つかったほうがいい面があるという例である。これは治療が進歩していなくても、それほど早期でなく、ある程度遅く見つかっても治るなら、前者を検診で見つけると過剰診断になってしまうのである。

つまり過剰診断の「進行しない」がんの性質は、周囲との関係性によって決まっており、がんの性質だけでは決まらないということがわかる。

「進行しない」がんというと、常に「進行しない」のはがんの方だと考えがちなのだが、現実はそうではない。別の病気で死ぬ可能性もある。治療が進歩する可能性もある。多少早く見つかっても遅く見つかっても、治療が有効だとどちらも治ってしまう場合もある。「進行しない」のは周囲によって規定される場合がしばしばあるのだ。

つまり、甲状腺がんの過剰診断に関して、いくら見つかったがんの生物学的側面のみを取り上げて、その診断閾値を考えたところで、それとは全く関係ない周囲の状況によって出現する過剰診断には全く無力なのである。そうした過剰診断を考慮した場合に、いくら診断閾値をいじったところで大部分の過剰診断を減らすことはできないというのが私の予想である。

2019年7月11日木曜日

甲状腺がん検診の診断閾値を考える

論座の記事(https://webronza.asahi.com/national/articles/2019070300008.html?page=1)に発する甲状腺がん検診の是非に関する議論の中で共有できる話題が出たので、それについて少し詳しく書いてみたいと思う。

超音波による検診を行うにあたり、過剰診断を少なくするために、診断閾値をより悪性を強く疑う例にシフトさせ、スクリーニングする方法がとられた。
この戦略の基盤にあるのは、検査の感度が低いところに診断閾値を変えて、多少の見逃しが出ても過剰診断が少ない方を重視するという戦略である。
見逃しが増えることを許容し、過剰診断が減ることで、より害の少ない検診にしようということである。

そこで問題はどこで線引きをするかということである。
ここでの問題は、あくまで超音波検査の所見の中で線引きをしようと考えていることである。ここにはすでに超音波検診をしたほうがいいという前提がある。しかしそれは本当に前提として採用していいものかどうか吟味する必要がある。

超音波所見の線引きを動かすほかに、感度を下げて過剰診断を減らす戦略がないか考えてみる。
例えば、触診による検診。あるいはアンケート調査に基づく検診というのはどうか。さらにこの先に、検診をせず、過剰診断をとにかく減らすという戦略もある。

こうした複数の戦略の中で、超音波をまず選ぶ根拠は何か。超音波検査の中だけで診断閾値を考える根拠は何か。

超音波検査、触診、アンケート、検診無し、その4つの中でまず検討したほうが良いのではないか。もし検診を勧めることが妥当だとしても、最初の3つ全部でまず診断閾値を考えたほうがいいのではないか。

そう考えてみて、これまでの意見に変化があるかどうか、もう一度考えてみてほしい。