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2010年9月19日日曜日

話が通じることの不思議さ

 
毎日、診察室を筆頭として、いろんな場所で、誰かと話すのが仕事なんだけど、話が通じるというのはつくづく不思議なことだと思う。

胸はどんなふうに痛いのですか、なんて聞いて、いろいろ患者さんが説明してくれるのだけど、ほとんどわけがわからない。患者さんによっては、どう表現していいかわからないのだけどと、正直に言う人もいる。

大学時代、同級生と話した、ほんのちょっとした出来事。
当時付き合っていた彼女の話題か。恐らくそんな話題なのだろうが、詳細は思い出せない。ただその後のことはよく覚えている。

「さびしいだけなのか、好きなのか、よくわからんのだ」という私。
「おれもちょうど同じようなことを思っていたんだ。その一言はおれの琴線にも触れる、おれもなんとなく思っていたことと同じような気がするんだけど、もう少し何か説明してくれないか」と言う友。

そう言われて、それ以上の説明が全くできない私。しばらくの沈黙の後、何事もなかったかのように別の話題に。ただそれだけのことなのだが、これは話が通じたというのか通じなかったというべきなのか。
今となれば、そんなのはさびしいだけだ、相手はそう明確に答えるかもしれない。しかし、そういう風に答えてしまえば、話は通じないというか、記憶にとどまることもなく通り過ぎるだけの会話になるしかない。こんなことに引っかかって、もっと説明してくれ、もっとわかりたい、というのは、話が通じている証拠だ、むしろそう思う。

誤解の幅こそがコミュニケーションの源泉だ。

30年を経て、こういうのを話が通じたというのだと思う。
「わからないけどわかる」、そうと言うしか仕方がない。ばっちりわかるというのは多くの場合勘違いだ。なんとなくわかる、少しはわかる、その方が全然信頼できる。

日々の外来が、なんとなくわかる、ということで済むような、そんな風にやれたらいいのに。
 

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