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2010年9月25日土曜日

興津弥五右衛門の遺書

 
森鴎外の短編の続き。切腹する武士の遺書なのだが、文語で書かれている。現代語で書くとどういうことになるのだろうか。

<わたしは、以前から希望していたように、明日、首尾よく、切腹することになりました。>
なんて書きだしになるのだろうか。

そういうことが普通の生き方としてある、という風に読めばいいのか、どうか。特別な事件としてというより、世の決まりに基づいて、つつがなく生きる、生き方として切腹がある。

新潮文庫のこの短編集には、「山椒大夫」、「最後の一句」にも、世の定めや、運命を受け入れて、死んで行く人たちが描かれているが、「興津弥五右衛門の遺書」に照らして読めば、こうした生き方があたかもすすめられているようにも思える。

殉教とか、殉死、と言えばそういうことなのだろうが、そうしたことをさらに一般化して言えば、何らかの「きまり」に従って生きる、死ぬ、ということだ。

興津弥五右衛門は武士道の「きまり」に従い、安寿は男子が家を継ぐというような「きまり」に従ったのだろうか。「最後の一句」の子供たちも同じだろうか。

そう考えたときに、自分はいったいどんな「きまり」に基づいて生きているのか。はっきりわかるのは、自分が基づいている「きまり」の中に、どう死ぬかということはどうも含まれていない気がする。死なないようにするための「きまり」だけで生きている。医療の「きまり」はまさにその最たるものだ。

「なるべく死なないように生きる上でのきまり」、これが現代の「きまり」の特徴だ。
 

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