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2011年8月13日土曜日

生活に根差した関心、続き


「生活に根差した関心」、といった時やはり真っ先に頭に浮かぶのは、「死」のことである。

明日死んでしまう可能性を無視できないというのは、「死」が生活に根差したものになっていないからではないか。

「明日死んじゃってもいいんだけどね」とあっけらかんと言う多くの老人に出会ってきたけど、それは何か生活と死というものが一体となっていて、死に対する考え方が単なる観念ではなく、生活に根差したものになっている気がする。もちろん生活に根差したところで死は観念なんだけれども。

これが10年後の死となったときに、その可能性を多くの人無視できなくなり、がん検診を受けたり、生活習慣病予防に努めたりする。そこで、10年後の死というものは、生活に根差したものなのかどうか。必ずしも根差してはいない。明日の死を心配したいする状況とそうは変わらないところがある。

逆に、明日の死も10年後の死も心配せずに生きられるというのはどういう状況か。死ぬわけない、死ぬ可能性を全く無視できる場合。しかし、それもまた「死」が生活に根差したものになっていないという点では同じだ。

「生活に根差す死」とは何か、死ぬ可能性を全く無視するわけでもなく、あまりに恐れるわけでもなく、その中間で、時に無視し、時に心配しながら、「死」以外にも多くの重要なことがあり、その多くの一つとして「死」のことがあり、その多くを含めた全体が自分の生活である、というような「死」の位置づけ。

明日死ぬ可能性はほとんどゼロ、50年後には100%、そんな極端の中で、日々生活していることの重要性。死を無視することよりも、死を恐れることよりも、今生活していることのリアルさ。

まだ十分ではないが、少し考えが進んだ気がする。
引き続き考えていきたい。





1 件のコメント:

おかゆき さんのコメント...

今までは、ほとんど現実とは捉えられませんでしたが、50歳を迎えると、少しずつですが、自分が死ぬ時のことを実感として考えるようになります・・・。