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2009年11月25日水曜日

極楽まくら落とし図

深沢七郎の小説。

積極的安楽死の話し。本当はそうでもないのだけどそう説明すると分かりやすい。しかし、そんな分かりやすい話ではないから、そう説明してはいけない。
研修医とともにこの小説を読む。最初はとても受け入れられない。しかし議論が進むうち徐々に賛成意見を言い出すやつが現れる。それでもかたくなに反対し続けるものもいる。
身寄りがない人ほど、死ぬまでがっちり医療を受けていたりする。病院はとにかくまくら落としするという発想がない。もちろん法律で禁じられており、本当にやったりすれば犯罪者になってしまう。しかし、緩徐なまくら落としならどうか。犯罪にならないような。
身近なつながりの深い家族がいれば、そのうちの誰かが、そろそろもういいのではと言い出したりする。緩徐なまくら落としである。しかし、これも病院では言い出しにくい。医者の権限の方があるかに大きいからだ。その結果、死を受け止めて、家族の責任において、むしろ積極的に緩徐なまくら落としを受け入れる患者はほとんどいなくなる。
もっと家族の力を使えば、医者だってこんな苦労せずにすむのに。
もちろん、小説のじいさんだって、医者が少し手助けをすれば、息子やワシにそれほど無理なお願いをしなくてもすんだかもしれない。
しかし、それが無理なお願いなのかどうか。医者が少し手助けということはなかなかに難しい。医師が入ったとたんに、医師がステークホルダーになってしまう。だから、医師を入れないように身内に無理なお願いをする。あるいはそれを無理なお願いとは思っていない。そういうものだ。無為に生きるのは恥ずかしいことである。無為に生きるというのともちがうだろう。無為でなくともそろそろ死ぬべきという時期がある。おりんばあさんは無為どころか、バリバリの現役のまま山へ行った。殺してもらうのが本望だ。捨てられるのが当然、それが正しい死に方。食い扶持がないような時代では、それこそが掟、今の世でいう法律だったりする。
それでは食い扶持があればそんなことはしない方がいいのかどうか。
食べ物が余る世の中。食べ過ぎて太る世の中。かつては全くその逆だったし、今でも世界にはそんな地域が五万とある。やせばかりの世の中と太った人ばかりの世の中と、どちらがどうなのか。
太った人が主流を占める世の中では、痩せがうらやましがられ、やせた人が主流の世では、太った人が羨望の的である。
食い扶持があるということ自体、どういう価値をおけばいいのか。あるのがいいのか、ないのがいいのか。そんなことすら、よくわからない。つまり、食い扶持がないために、まくら落としがある世の方がよほどいいかもしれない。
さらに、実は現代にもまくら落としは別の形で復活している。
移植医療とまくら落としは似ている。脳死はまくら落としそのものだ。脳死によって、一人死んでも、それで何人かが助かる。まくら落としも、それによって何人かが食い扶持を確保したり、重い介護から解放されたりする。これはまくら落とし以外の何者でもない。
なにも変わってはいないのだ。個体は滅んでも、生命はつながり続ける。それは、今も昔も、全く変わっていない。

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