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2009年11月26日木曜日

治療を拒否する患者さん

今日は医療倫理についての話題で研修医とディスカッション。
倫理の面で何か問題を感じた患者はいますか、と聞くと、なかなかでてこない。そもそも倫理ということが何か縁遠いことである。ちょうど、昨日のニュースで代理母のことがあったので、例として話してみる。
患者も子供がほしいし、その母も自分の子宮を使うことに同意しているし、産婦人科医もやろうという。そして実際、母が自分の娘の子を出産する。全員同意の上だが、それでいいのかどうか。どう思うか研修医に聞いてみる。いいと思う、即座にそう答える。
しかし世の中はそう甘くない。産婦人科学会が、反対の声明を出す。
当事者だけでは決められないことってある。社会的に見て公正かどうか、そういう視点を持たないと、大変な間違いをおかしてしまうかもしれない。たとえば原子爆弾の発明。代理出産にそういう面があるかどうか、考えてみる。それが今日の話題。
まだわかったような分からない話。とにかく話を進めてみる。
「倫理の問題について少しわかったと思うけど、何か自分で思い当たる患者さんはいない?」
「そういえば外科ローテート中に、早期胃ガンで手術を拒否した患者がいました」
「どんなところに倫理的な問題があった?」
「手術をすれば治るのに、娘が漢方医で、漢方に頼っている間に、進行がんになって亡くなってしまいました」
「どこに倫理的問題があったと思う?」
「手術をせずに死んでしまったところですか?」
そうなのだ。そういう議論になってしまうのである。そういうとはどういうことか。私の意見は明確だ。研修医が言うところに倫理的な問題などない。手術をせずにすんだことは、むしろ倫理的な手続きが踏まれた証拠である。
「じゃあちょっと質問。早期胃がんで根治手術が施行された、こんな患者なら倫理的な、問題はないだろうか」
「そう思います」
「もしその患者が、もう十分生きたと思っており、手術はイヤで本当は治療を拒否したいと思っていたのを言い出せなかったとしたら?」
患者が手術を拒否すると言えたことで、一つ倫理的なプロセスが乗り越えられている。逆に、治療の拒否ができないまま治療が提供されたとしたら、その方が倫理的に問題がある。そこがこの患者の倫理的な問題のポイントなんだけど。この患者の場合は、治療拒否に問題があるのではなくて、その際に、手術や他の治療の有効性や危険について、きちんと説明されていたがどうかが、問題なのだ。
患者は治療を拒否する権利がある。倫理的な医療を行うための必須の項目である。ただ、世の中の患者は、とにかく治りたいし、言い医療を受けたいし、そこに倫理的な問題があろうとは多くの場合夢にも思わない。そして、医者はさらにそうだ。
多くの医者にこういう話をすると、患者が拒否することが倫理的?アホかと思われる。確かにこれだけ医療が進んだ中で、拒否の選択肢があるなんて考えるのはアホかもしれない。しかし、それはたぶんアホではないのだ。倫理的という視点では、間違いなく私の意見の方が正しい。しかし、多くの人は別に倫理的な判断を経て医療を受けたいわけではない。非倫理的であっても、とにかく治りたい、長生きしたいのである。医者も、とにかく直したいのである。倫理の問題を考えるときに、最も重要なことは、そもそも倫理的に考えないで判断するのが普通になっていることである。
代理母、脳死移植も、そういう視点で考えてみると、また違った面が見えてくる。倫理的に生きるということは、希望を叶えるということとは違う。希望を叶えるという点で言えば、移植を受けたいというのも、胃がんの手術を受けたくない、というのも、どちらも同じである。ただ、移植を受けたいという人に対しては、移植医がバックアップしてくれるが、胃がんの手術を受けたくないと言う人には、バックアップしてくれる医者がいない。そんな違いを倫理の問題にすり替えてはいけない。当事者以外の意見をどう採り入れるか、移植医は倫理について語るべき立場にないし、胃がんを手術する外科医も同じである。移植の時には、移植をしないという選択肢がつねにある。そこでは倫理的な問題は生じにくい。逆にただ胃がんの手術をするというときには、手術をしないという選択肢がはじめからない場合も多い。そういうところでこそ、倫理的な問題が発生する。
倫理的な問題は、倫理的な問題が存在すると認識されないところでこそ、恐ろしいのである。

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