2011年2月18日金曜日
ワクチンについて少し考えてみた
「そのまま」という高橋源一郎の http://twitter.com/#!/takagengen つぶやきを読んでワクチンについて少し考えてみた。
私の周辺はワクチンを推奨する人たちが多いし、ワクチンをうたない人が批判されがちな環境にいる。私もどちらかといえばそういう意見だ。それに対して、「そのまま」という話。
ワクチンをうたず、病気になっても、後遺症が残っても、死にそうになっても、死んでしまっても、それでいいじゃないか、そういう方向の話か。
つぶやきのまくらに、高橋源一郎自身が、自身の子どもの脳炎になった時に、子どもがどういう状態になったとしても、受け入れる決意をした、と書かれている。そして、そう受け入れたときの自分自身は不思議な幸福感を感じたと語る。
この幸福感について理解することは難しいかもしれない。しかし自分自身を振り返るに、同じような患者さんをたくさん診てきたと思う。病気になっても、障害を残しても、それを受け入れることで幸福感といわなくても、決して落胆することなく、普通に日常を生きていた患者さんたち。
もし高橋源一郎のように一切を受け入れる決意が出来、幸福感を感じるようなことが出来れば、ワクチンを受けようが、受けまいが、いずれにせよ大丈夫だ。
重要なのは「そのまま」を受け入れることができるかどうかで、ワクチンをうつかうたないかではない。受け入れられないと、ワクチンをうっても、ワクチンのない別の病気にかかったときに、それを受け入れることが出来ず、結局不幸になる。
ワクチンを受けない「自然派」も実はワクチンをうつことが受け入れられない。逆に「ワクチンをうつ派」は病気になることを受け入れられない。
「そのまま」が受け入れるポテンシャルをもちながらワクチン接種を受ける、まあワクチンは例に過ぎなくて、あらゆる医療を受けることが出来れば、かなりの幸福感を得られるかもしれない。
実際のつぶやきは、このあとべてるの家の話につながっていく。統合失調症をそのまま受け入れ、生きているべてるの人たち。
かれらは「治さないでください」という。その気持ちは高橋源一郎が脳炎の息子の行く末を受け入れる決意したときの幸福感につながっている。
受け入れられたら、医療なんかいらない。人は、生まれ、生き、死ぬだけのことだ。
しかしそう簡単にはいかないところで、医者の役割が少しはあるのではないかと思う。
ついついこのつぶやきにリアルタイムで付き合ってしまい、今週はひどい寝不足だ。
しかし、寝不足の頭でも、考えが止まらない。
ぼくは病気だろうか。
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