ここで働いています

2010年12月27日月曜日

不敬文学論序説

 
とても自分の能力で読み込めるような本ではなかったが、自分にとっても切実な問題が取り扱われていることだけはわかる。

深沢七郎からつながって手にした本だが、意外なところへ連れて行かれた。

考えてみれば、医療も健康追求教の教祖のもとにあり、それに背くことは不敬にあたる。その不敬が、きわめて巧妙にコントロールされる。決して不敬に対する罰があるわけでもないのに、信者が勝手に罰があるかのようにふるまってしまうことで、不敬罪なんかなくても、勝手に制御される高度な仕組みができている。恐るべし、健康追求教。

天皇制の中で小説を書くとはどういうことかというのと、とことん死を避けようとする中で、必ず死ぬ将来へ向けて医療を提供するとはどういうことなのか、というのは、とても似ている。

本来なら、天皇制は避けることができるし、小説は自由に書けるはずだ。
同じように、死を避けることなどできないが、死ぬ中で何かをなすということは可能なはずだ。

しかし、現実は、天皇制の中で小説は自由を奪われるし、死を避けることで生の自由が奪われている。

これから死ぬまで考え続けなくてはいけない課題の一つだと思う。
 

2010年12月25日土曜日

勝ち負け

 
勝ち負けについて考える機会があった。

自己実現、夢、出来れば遠ざけたい言葉たち。
遠ざけたいのは勝つことが前提にあるからだ。
それは単に個人的なことにすぎなくて、私自身が受験勉強で他人を押しのけて合格してきた過去が受け入れられないだけかもしれないが。

思い出すのは、小学校の国語の教科書。
テニスのデビスカップかなんかで、日本人の清水善三選手がどこかのチルデン選手と戦ったときのこと。ここを決めれば勝てるという場面で、チルデン選手が足を滑らせたのを見て、柔らかいボールを返して、結局負けてしまう。

清水選手のこの行為についてどう思うかを話し合った覚えがある。何を言ったかまでは全く記憶にないが、今はこの問いについて、少しは明確に答えることができる。

柔らかいボールを返すことこそ、生きるということである、と。

負けること。
負けることで何かをなすというのは、勝って何かをなすのより、ずっと価値があるのではないか。

世界に平和をもたらす人がいるとすれば、勝つ人ではなく、負ける人にちがいないと思う。
 

2010年12月21日火曜日

どこから来てどこへ行くのか

 
きのうニュースで家系図を書くソフトを取り扱っていた。自分のルーツを知りたい、どこから来たのか知りたい、そういう気持ちは広くあるのだろう。
ゴーギャンの絵のタイトルにそんなようなのがあって、師匠が何かの学会の講演の枕に使っていた。しかし、講演内容が思い出せない。師匠はよい弟子を持つことが出来ないという世の中の真理か。

自分自身としては、どこから来たのかということはもう手遅れで、無理して知ってとんででもないルーツだとそれも微妙なので、あまり家系図を追っかけようという気にはなれない。しかし、どこへ行くかというのは現実の問題としてある。

むかし、ダブルベッドという映画があって、キャストは大谷直子と石田えり、柄本明と岸辺一徳、監督は藤田敏八だったかな。ラストシーンでバイクに乗った男女が交わす会話。

「どこへ行く?」
「今から決めるわ」

どこへ行くか聞かないうちに、バイクは走り出す。空を戦闘機が横切っていく。そんなラストシーン。なぜか鮮明な記憶としてある。1回見たきりの映画で全然違うシーンかもしれないが。
行き着く先がわかっていないというのはとても不安だが、わかっているのもなんだかつまらない。ただ最終的に行き着く先は、死ぬということで、それに例外はない。もちろんで死んでからどうなるかという問題は残る。

だから、どこへ行くかという問題は、死ぬまでの問題と、死んでからの問題で、死ぬこと自体を避けた質問だ。この質問をそういうふうに位置づけて、改めて考えてみる。

まず、死ぬまでにどこへ行くのか。そして死んでからどこへ行くのか。

医者になるとか、へき地医療をやるとか、教育専門の医者になるとか、開業するとか。あちこち行くんだな。決めないうちに走り出して、道なりに走るというのはとてもいい生き方だったと思う。

死んでからのことはまあいいか。

行き先よりも、たぶんプロセスが大事、そういうことだ。ゴーギャンの絵をもう一度見てみたい。
 
 

2010年12月20日月曜日

成人学習理論

 
成人学習理論は多くの人に受け入れやすいだろう。
「私にぴったりした学習法」が獲得できれば、そんないいことはない。

でもこれじゃあだめなんじゃないかな。これは成人学習理論の最大の誤解ではないかと思う。
学習者のニーズが大事というところは、確かに大事だが、それは手段であって、目的ではない。
みんなここを誤解していると思う。ニーズからスタートすることは必要だが、行き着く先がどこかよくわからないのが成人学習である。それをアウトカムと呼ぶ。単に診断できるというのでなく、よりよい医療が提供できるというような、分けのわからないものに向かっていかなくてはいけない。ニーズから離れることが重要な場合が多い。

受験勉強とは違うのだ。みんな受験勉強が得意だったから、なかなかそこから離れられない。本当は受験勉強なんか嫌いだったはずだ。

内的な動機というものだけでは、よい学習にならない。
むしろメタレベルで自分の学習を振り返ることが成人学習の特徴だ。

自分は自分以外のものからできている、というのはメタレベルの認知に他ならない。

成人学習とは、答えのない問を問い続けることである、というほうが自分にははるかにピッタリくる。

手段は様々、何でもいい。その1つの手段としての成人学習理論という視点を見失ってはいけないのではないか。理論とは所詮道具なのである。

EBMが道具であるように、成人学習理論も道具である。
EBMを道具に学習した経験に基づくだけで、エビデンスには基づいていないが、たぶんそういうことだ。
 
 

2010年12月17日金曜日

やりたいことと期待されること

 
やりたいことはあまりない。
そんなことはないだろうという反論に、とりあえずこう言っておこう。

死にたいというのもやりたいことの一つだ。

やりたいことがやれないということより、何も期待されないということの方がはるかにきつい。

と書いていると松井の入団発表のニュース。

巨人入団にこだわった江川はやりたいことはできたかもしれないが、無理やり入団して期待されることが小さくなった分、やはりきつかったのではないか。
松井はおおばけするかもしれない。

わたしもまた、やりたいことよりも、何かを期待されることで生きていけると思う。

世の中はでかいし、わたしは小さい。

人の命は地球よりはるかに軽い。それでいいじゃないか。
 

2010年12月16日木曜日

アイデンティティ

 
いつから使われるようになった言葉なのか。
余計な御世話だと思う。

家庭医のアイデンティティとか、総合医のアイデンティティとか。

臓器別専門の網からこぼれおちる患者がいる以上、それ以外に何の理由が必要か。

臓器別専門医でない医者というのではアイデンティティが保てないと思うなら、臓器別専門医になればいい。臓器別専門医の仕事もやりがいがあるし、必要とされる仕事だ。

へき地医療にかかわる中で、「へき地がある限りへき地医療がその存在意義を失うことはない」、ということを明確に自覚した。へき地医療は都会では必要ないが、へき地には必要である、当たり前のことだ。

今となれば「へき地に長くいると、へき地でしか通用しなくなる医者になるぞ」、という問いに対し、「望むところだ、へき地で通用しない都会の医療をへき地でやってどうする」、と明確に答えることはそれほど難しいことではない、と思う。自分がへき地医療をやりたいかどうかなんてのは、全くどうでもよい。そう思えたとき、目の前には大きな世界が広がっていたと思う。
 
アイデンティティなんて言葉は捨ててしまえ。

自分は自分以外のものでできている。
 

2010年12月10日金曜日

別にころっと逝くならいいんですけど

 
「別にころっと逝くなら今死んでもいいんだけど」といいながら、あれが心配、これが心配という患者さんがたくさん現れる。

「寝たきりになっちゃ困るから」、「介護が必要になって迷惑かけてはいけないから」、そういうことだろう。

そうした患者さんに次のように言ってみる。

「それなら、きょう死んじゃうという手あるんですけどね。お手伝いしますよ」

むりだな。

しかし、積極的安楽死、というのは大きな選択肢だと思う。
1人で自殺というよりは、誰かの手を借りて、少しはいいような気もする。
ただ逆に、最後は1人で、というのもとてもいい気がする。

自分のからだは自分のものではないという考えもあり、死に方について、自分ひとりで決めるよりは、多くの人の合意で、決めたほうがいいのかもしれない。
しかし多くの人はそんな場にかかわりあいたくないだろう。そうなると、やはりそれは家族の役割だったり、医療従事者の仕事ということになるのか。
 
極楽まくらおとしのリアルさは、時代の要請か。そんなわけないか。
考える価値はある。
 
 

2010年12月6日月曜日

怒る患者

 
入ってくるなり怒っている患者。
かぜ全然治らない。鼻水が出て匂いがわからない。毎日かカイゲン飲んでいるのに。
その上一時間も待たされ、かえって調子が悪くなる。早く何とかして。

早口で、鼻が詰まっている様子もないし、その間鼻をかむでもない。

熱もないし、食事も摂れるし、鼻水くらい。
診察上異常ない。

このまま様子みても、というなり激怒。

相談して決めたほうがいい。こっちはプロだし、いい解決方法提示しますよ。
そういう提案をすべて拒否して、説明を途中でさえぎって、勝手に出て行ってしまった。

患者中心の医療、なんて言葉はやめるべきだと思う。

患者中心の医療の背後には、儲かる医療、ものが売れる医療という構造があり、そんなものは全然患者中心じゃない。

今日の患者だって、「はやめの○○○」、みたいなかぜ薬のコマーシャルにだまされた被害者だ。
 

2010年12月4日土曜日

みちのくの人形たち

 
みちのくの人形たちを読んだ。

間引きについての小説、と言うと誤解があるか。

すべては自らの問題として、地域で支える仕組み。

産婦人科医に委託したところで、何も解決してはない。

しかし、解決を必要とする問題ではないのかもしれない。

「人が減れば、世の中平和になる」

解決すべき問題は、人口問題か。
 

2010年12月1日水曜日

情報は操作されている2

ある会で低コレステロールと死亡の関係についての議論。

観察研究で低コレステロールと死亡の関係をいくら指摘しても、コレステロールを下げてはいけないということの根拠にはならない。

その意見に何の異論もない。

そこで介入研究で、総死亡が増加する、がんが増加する、脳出血が増加する、非心血管疾患が増加する、というランダム化比較試験やランダム化比較試験のメタ分析を紹介したのだが、誰もそれに触れない。全くの無視。

これは何か恐ろしいことのような気がする。

2010年11月29日月曜日

ノロがはやっているらしい

 
ノロがはやっているらしい。テレビのニュースでやっていた。

「ノロウィルスには特効薬がないため、安静にして、よくなるのを待つ以外に手がありません」とかなんとか。

放っておけば治るんだから。特効薬なんかあまり要らないんだけど。
こういうばかばかしい言葉遣いでニュースを書くやつに、減点100.
 

2010年11月25日木曜日

極楽まくらおとし図2

 
今日は研修医とナースと極楽まくらおとし図を読んだ。
もう何回読んだだろう。

法律で守られた医者が行う積極的安楽死と、家族が法律に背いて行う積極的安楽死とどちらか好ましいか、と問いかけたら、意外なことに、家族が行う方がいいという意見が優勢だった。これは何か恐るべきことのような気もするが、とてもいいことのような気もする。

これは単なる小説の力なのか。

小説のラストシーンは確かにとても美しい光景に思われる。

それでも、自分で食事を取ることを拒否すれば死ねるんだから、他人に殺してくれと頼むようなことはすべきでないという意見も出る。

確かに家族は、重い荷物を背負う。積極的な安楽死なんて無理をせずに、放置すればいいじゃないか。そうすればそんな重い荷物を背負わずに済む。

しかし、放置ではじいさんが救えない、積極的にかかわることでしかじいさんは救われない、そう思ったのか。積極的安楽死といっても、それはじいさんを助けようという結果ではないのか。
助けるというのはもちろん命を助けるという意味ではない。まさにじいさんを助けるという意味だ。

わけがわからないのは今日も同じ。
しかし、わけがわからないことだけが持続していく、次につながっていく。
 

笛吹川


笛吹川
 
深沢七郎、武田三代と農民六代の物語。
生まれて死んで生まれて死んで。

当たり前のことだけど、甲州人だからといって武田信玄を支持しているわけではない。

武田三代に仕えたものはすべて死に、そうでないものが生き残る。

思い出したのは井上陽水の「ミスコンテスト」

「何も決めてない掃除夫が働く」

コンテストの参加者より、何も決めてない掃除夫の人生に興味がある。

武田三代よりも農民六代に関心がある。
 

2010年11月23日火曜日

エビデンスの手触り

 
エビデンスの表面は何かつるつるぴかぴかなものだと思っている人が多い。

「有効な治療」は、劇的な効果を生む、つるつるぴかぴかの薬によってもたらされる。

そんなわけない。

エビデンスの表面は、ごつごつで、とげとげで、でこぼこなのだ。この手触りがわからない限り、エビデンスは誤解され続ける。

週末は、「患者と医者で話は通じているか」なんて題で話してくる。

キーワードは「エビデンスの手触り」だ。
 

効果には個人差があります

 
yahooのページのダイエット広告にも小さな文字で書かれていた。

「効果には個人差があります」

それを見てふと思ったこと。

健康食品やダイエット食品にお決まりの文句。効かなかった時の言い訳のために、入れているわけで、効果が大したことないとか、はっきりしたものではないといっているようなものである。しかしこの文言は、医学的に有効であるとされている多くの医療にも当てはまる。

降圧薬のPTPシートのどこかにも、やはりこう入れるべきではないだろうか。

「効果には個人差があり、それほど血圧が下がらない場合もあり、血圧が下がったとしても脳卒中になる場合があります」

えらいことじゃ。でも実際それは多くの場面で正しい表現なのだ。ダイエット広告は正しい。そして、それは多くの医者が行っている治療についても正しい。
 
 

2010年11月21日日曜日

明日に延ばせることを今日やるな

 
今日できることを明日に延ばすな、なんていうのだけれど、とりあえず明日が来る可能性が高いので、確率の高い方に賭けて、明日に延ばす。ただ確率は高いといっても、明日が来る可能性は徐々に低くなっているのだが、むしろ明日に延ばすことが多くなるのはなぜか。

実は確率が高い方に賭けているわけではなく、希望的観測に賭けているだけかもしれない。

しかし、そういう説明をしてみてもしっくりこない。

そもそもできることとは何だろうか。今日一日を振り返って、今日できたことがある。出来ないこともある。今日できたことができたし、今日できなかったことはできなかった。

始める前にできるかできないかなんてわかりようがないので、1日が終わったところで、初めてできたこと、できなかったことがわかる。できなかったことがあるときに、どうしてできなかったのだろうと思うより、やり残したことがあるので、また明日頑張れるかもしれない、そんなふうに思うことで、。

そしてその先にあるのは、明日がないならないで、またそれも受け入れることができるかどうか。

ただ、そんなことは今日できるわけもなく、だからそういう明日を受け入れることができるようになろうと、また明日を待つことができるのかもしれない。
 

2010年11月16日火曜日

フィギィアスケート

 
フィギィアスケートがたまたまついているテレビから流れている。
みんな転ぶ。ちょっと転びすぎだと思う。1位も転んで、2位も転んで。
個々の技も大事だけどやっぱり全体が重要だ、と思う。
しかし、全体が大事だというなら、転んだっていいじゃないかという気もする。
これは個々の技の問題ではなく、競争ということが問題なのかもしれない。

競技というのはなんだか少しいやだな。
人生もなんだか競技のようになって、ずいぶんつまらなくなっている。

贅沢競争、健康競争、長生き競争。

なんて書いていたら、エキシビション。
こっちの方が全然いいじゃんか。

もう競争はやめよう。人生はエキシビションだ。
 

2010年11月7日日曜日

犬は素晴らしい

 
尖閣ビデオの流出で世の中大変なことになっている。国というのは大変だ。と書いて、会社も大変で、家庭も大変で、夫婦も大変、ということを考えると、まあ大したことではないなと思う。

実はうちの家族も先週大変だった。

先週のことである。10年一緒に暮らした家族の一員が夜中に家出をして、3日後に警察署に保護されるという事件が起きた。こっちはもうパニックで、必死に探し回ったのだが、何の手がかりもない。ほとんどあきらめかけていたところ、警察署からお宅の家族を無事保護したとの連絡あり、一件落着した。

3日間をどう過ごしたのか、さっぱりわからないが、大変なことがあったに違いない。しかしそんなことについて、一言も言わないし、おくびにも出さない。なんと強靭な生き方。

犬を家族に持ってよかった。

同じ家族の一員といっても、人間と犬では全然違う。犬はまるで何もなかったかのように日常に復帰している。3日間の大冒険について全く話すこともない。それでいてあっという間に以前と全く変わりない暮らしに戻っている。これは素晴らしい能力ではないか。

チリの落盤事故の救出劇も、人間世界の範囲では素晴らしいことにちがいないが、犬の世界を含めれば、何でもないことなのかもしれない。

人間は駄目だな。最も出来そこなった生き物。だから、よく勉強し、よく考え、よく生きなければいけない。でも犬のように生きるというのも一つの選択肢かもしれない。そんなことが可能かどうかよくわからんが。
 

2010年11月4日木曜日

甲州子守唄

 
深沢七郎の小説。図書館で借りたりしなければなかなか読めないかもしれない。5年ほど前か、神保町をぶらぶらしていて、全集の古本を衝動買い。なにしろ深沢七郎の小説やエッセイは絶版ばかり。文庫化も楢山節考くらいか。とにかく読めない状況で、店頭に積まれた全集を見て、どうしてもほしくなってしまったのだ。

しかし、なかなか読む気になれなくて、読む時間もなく、ときどき寝転がっては、短編とエッセイを読むくらい。長編には手が出なかった。

それで、今年の休みにようやく読んだ長編小説のひとつ。

振り返り、なんてことを重視して日ごろの仕事に取り組んでいたが、そこへ一撃。ある意味振り返らない人たちの物語。

出稼ぎに行ったアメリカでの仕事について一切口を閉ざす主人公。殺人犯を見て見ぬふりをする、主人公家族。家族が全員空襲で死んで一人残されても、どうということなく米を売りに来るじいさん。いつの間にか闇屋になる娘。

物語の最後へ向けて、サッカリンにうどん粉を混ぜて売る主人公。金のトラブルばかりの息子に金にはしっかりしているとうそをいって仕事を紹介してもらう主人公である父。

ラストは、主人公の母が、サッカリンにうどん粉を混ぜ、孫に嘘八百の手紙を持たせてやる息子をみて、こういうのだ。

<いつまでも(いい人間で終わってしまうことなんか出来んさ)とオカアは覚悟を決めた。いつまで続くかわからない商売だから早く稼いでしまわなければ困るのである。悪いことをするようだが(いいさ、恥をかいても仕方ねえさ)とオカアは自分に言い聞かすようにひとりごとを言った。>

表題の子守唄というのが何を指すのか。なんとなくわかる。

生きるためには振り返りだけでなく子守唄が必要だ。学ぶためには振り返る必要があるかもしれないが、生きるためには振り返らないことが重要かもしれない。当然、学ぶことは生きることの一部にすぎない。

振り返り、振り返り、もっと良くするためには、という自分に対して、そんなに振り返らなくても、という思わぬ方向からの一撃。しかし、それを一撃、と表現すること自体が自分自身の問題で、その一撃を、「子守唄」だと思えたところで、「何だ、自分にとっての小説はすべて子守唄だったのだ」、そう腑に落ちた次第。
 
 

2010年10月29日金曜日

明日から休み

 
明日から5日間の休み。夏休みは10月までに取らないといけないということで、11月の休みはただの有給休暇であるが。

明日から私の休みに合わせたかのように日本シリーズ、というのだが、なんと1,2戦はテレビ放送がないらしい。
なんだかなあ。まあ視聴率率の問題なのだろうが。

名古屋でも放送がないのだろうか。ネットで調べるとさすがにそんなことはなく、全試合の放送があるそうだ。逆に名古屋では、巨人が出ていたとしたら日本シリーズの放送はなかったりするのだろうか。

しかしまだ野球やサッカーのニュースはまだいい。ゴルフはすごいことになっている。どのニュースも、とにかく遼君。何位だろうが遼君である。さらにすごいのはビーチバレー。とにかくなんでも浅尾美和。ほかにどんな選手がいるかなんて全然わからない。

考えてみると、健康に関するニュースも全く同じだな。健康問題における遼君探し、浅尾美和探し。決定的なスターがいないところで何とか救われている。低コレステロールの問題は、健康問題界の遼君になれるかどうか。

どちらにしてもあほらしい。
 

2010年10月27日水曜日

NHKの取材を受ける

 
コレステロールと死亡の関係についてNHKの取材を受ける。なかなか厳しいものがある。

NHKにも強い自主規制があると、ディレクターはいう。マイナーな情報については、メジャーな情報よりもはるかに厳密でわかりやすい根拠がない限り、取り上げられないという。だからマイナーな情報については取材の段階で厳しく検討することになるのですと。

番組にするというところでは、まあそりゃそうだろう。でも、取材のレベルでまでそんな内輪の自主規制に基づいてやられても、こっちは困ってしまう。私をそんな自主規制に巻き込まないでほしい。


どういう番組にするかということと、取材は独立して行われるべきものだ、と思うのだが、そうでもないのか。そうでなければ取材の意味なんかない。初めからこういう番組は難しい、という状況であっても、せめて取材くらいそこから自由にやってくれたらいいのに。
 
せめてメジャーな情報もマイナーな情報も同じ基準で評価してくれないと、中立なNHKが泣くというものだ。そうでなければ大本営発表ではないか。

メジャーな情報というのは、日本は負けていないという情報で、それは緩い吟味でバンバン流される。マイナーな情報、つまり日本が負けているという情報は、徹底的に検閲される。

高コレステロールが危険だという情報はさして吟味もされないが、低コレステロールが危険だというマイナーな情報だけが厳しく吟味される。
これを自主規制というのは間違っている。これは大本営発表ではないかと。

それでも、ぜひ話を続きをしたいと思う。
自主規制はNHKの自主規制であって、ディレクターにとっては他主規制だと思うからだ。
ディレクター自身が、NHKに規制されてどうする。ディレクターは規制に対して、それを取り除く立場にいるんじゃないのか。

ぜひ規制を取っ払って、もう一度話をしようじゃないか。NHKのディレクターさん。
 

2010年10月26日火曜日

プロフェッショナル

 
プロフェッショナリズムなんてことが言われる。なぜだ。そう叫ばれるようになった背景とはどんなことなんだろう。

プロとは「受け入れられる」ということではないかと思う。私の考えでは、「受け入れられない」から、プロフェッショナルについての議論が始まったのだ。

ゆっくり書いている時間がないので、間をすっ飛ばして、結論だけ書けばこうだ。

生きるプロとは「死を受け入れる」人のことである。
 

2010年10月15日金曜日

低コレステロールと死亡

 
低コレステロールと死亡の関連を検討した研究が論文として掲載されるところまで何とかたどり着いた。

要点は以下のごとく。

低コレステロールほど死亡の危険が高い。
この関係は追跡開始から5年以内の早期死亡を除いても変わらない。
死亡増加の背景には、男女とも脳出血、ガンの増加がある。


ココまではこれまでの報告と同じ。
今回の新しいニュースは以下。

肝疾患、特にC型肝炎の影響を除くと消失するという報告があるが、肝疾患死亡を除いても不変である。
女性に限っては低コレステロールにおいて心不全死が多い。
 

2010年10月13日水曜日

意外な質問

 
ある大学の医学部の3年生に対する「薬が効くってどういうこと?」という講義を終わって、質問を受ける。講義の最中はなかなかの手ごたえがあり、どんな質問かと思っていたら、「統計の話とかが多くて、私の期待した話が少なくて、期待外れでした」という質問ならぬ、講義に対する抗議。その抗議について講義をし直そうかと思ったが、そういう時間もなく、こちらもパニックになりつつ、わけのわからない回答をして帰ってきた。

質問者が講義を聞いて思いだしたのは、薬嫌いの祖父が無理やり薬を飲まされたこと。それがとても嫌なこととして思い出されれるというようなはなし。
エビデンスなんかどうでもいいから、飲みたくないということをよく聞いてほしかった。そういうことだったのかな。そうだとすると、わたしはそういう話をしたんだけど。
薬を飲みたくない人にも、薬が有効だというエビデンスがかなり役立つという話で、質問者のニーズにぴったりだと思うのだけど、全然期待外れだと。さらにわざわざ手を挙げて発言してまでまで、私に期待外れだというのだからよほどのことだったのだろう。

講義の限界というのは、こちらが好きなように話すしか仕方がないように、聞く側も好きなようにしか聞いてくれないというところだ。でもそれだけのことでもなさそうだ。

質問者が、わざわざ手を挙げてまでいい残したこと、今一度振り返る必要がある。
 

2010年10月12日火曜日

温暖化のニュースのわけのわからなさ

 
温暖化で、木が枯れているという。
まあ局所的にはそういうこともあるだろう。しかし地球全体を考えたとき、温暖化によりもう少し北へ行けば育つ環境がむしろ広がっているんじゃないかと思う。

普通に考えて植物が育つ環境は、温暖化によってより広がると思うのだけど、そうではないのだろうか。逆に寒くなれば森林面積は小さくなるのではないだろうか。

コレステロールについてのでたらめな情報がばかりが流れ、肝心なものが隠ぺいされる。高いのが危険、低いのが危険、どちらも結構でたらめだったりする。
高血圧についても、糖尿病についても、がん検診についてもだ。しかし、温暖化についての情報ほど偏ってはいないような気がする。

温暖化のニュースは恐ろしい。流す方は何を考えているのか。やはり温暖化で木が枯れると思っているのだろうか。視聴者は、どう思ってこのニュースを聞いたのか。温暖化で木が枯れるなんて、そのまま受け取っている人が多いのだろうか。ニュースを流す方も、受け取る方も、ほとんど思考が停止している。

温暖化が止まリ、逆に寒冷化し、氷河が南下すれば、森林が広がるとでも思っているのか、このニュースを流した人と聞いた人の両方に聞いてみたい。

世の中は恐ろしいことになっている、と思う。
 

2010年10月10日日曜日

メーカー共催の講演

 
メーカー共催の講演でのトラブル。
当初はメーカーの協賛なしの講演が、主催者側の配慮(おそらく謝金が少ないことに対する)からメーカー協賛となって、謝金が増えること以外はほとんど不快なことばかり。最近では最も不快なことだったかもしれない。

新幹線の切符を手配してくれるというので、神戸からの帰りに名古屋でいったん降りるがいいだろうかということでお願いした。

そうしたら、払い戻し不可能な切符で、神戸から名古屋までしか負担できない、名古屋以降は自己負担してくださいとの返事。こちらが準備する切符ですから、神戸から東京まで一直線に帰って来てもらわないと困ります。そういうことらしい。あなたの言っていることはメーカーに自分の都合の途中下車の分まで手配させるという不正行為ですよ、みたいな感じもあり、結構まいった。

それにそのメールの返事になんと名古屋からの特急料金の料金表かはりつけられている。こんな少額のことですからそちらで負担しなさいみたいな感じで。

久々に切れた。

別に私から切符の手配を頼んだわけじゃない。自分で名古屋途中下車の切符で手配して、神戸ー東京間の料金だけを精算払いにしてもらえば済むことだが。それはだめらしい。

払い戻し不可能な切符にしてあるのは不正防止のためだろう。MRが不正をしたり、医者が不正をしたり、そうう歴史があるにちがいない。

携帯電話で1分もあれば往復の新幹線が予約できる時代に、切符を手配させてくれといって、そのために、都合をつけて何日の何時に来てもらえれば会えますなんて約束を繰り返し、2回も3回も会って、メールのやり取りをし、ようやく切符の準備にたどり着いたら、名古屋までの特急券まで。

お願いだから、こんな対応しかできないのに切符の手配をしますとか言わないでほしい。

結局メーカーの協賛なしで、行くことにしてもらったが、本当に不愉快。
しかし、よくよく考えれば謝金が増えることで協賛になってよかったと思う自分が最初にいる。メーカーの協賛を最初から拒否すればこんなことにならなかったわけだ。そういう意味でさらに不愉快。むしろ元の原因は自分にもある。

そういう自分の側のいけてない部分が元なので、あまり怒っている場合じゃないな。

不正を防ぐための払い戻し不可の切符、これは払い戻して格安切符で差額を儲けるというような不正を防ぐかもしれないが、そういうモラルそのものを正すわけじゃない。

で、実際メーカーも、医者にも、そういうモラルの低下が明らかにあり、自分もそのひとりであり、そのためにこういう不愉快な仕組みを氾濫させているわけで、自業自得と言えばそれまでだ。

しかし、モラルの問題は結局、自分自身のモラル、社会のモラルの問題であって、無理やり制度で締め付けても、モラルが向上するばかりか、むしろモラルは低下し、得をするのは会社ばかり、というばかばかしい相変わらずモラルの欠けた社会。

 あほらしい。
 
 

2010年10月8日金曜日

生物多様性基本法

 
生物多様性基本法というのがあるということを新聞で知った。
多様性を守るのは何か。法律が守るとは思えない。現在の多様性は法律で守られたわけではなく、勝手にそうなっただけのことだ。

人間が増えすぎたというのは、法律によって達成されたのかどうか。そういうところがある。少子化対策基本法というのもあるのだろうか。人間が増えすぎてなお少子化が問題とはどういうことか。

少子化も困るし、生物の多様性も守らないといけないし、大変だ。エコロジーというのは両立が不可能であるというのが、その本質だろう。何かが増えれば何かが減る。人間が増えれば人間以外が減る。それをエコという。

ところが、それがいつの間にやら、人間も増え、生物の多様性も守られるのがエコとなった。そういう無謀な試みに賭けるのは人間だけだろう。こういうのは、本来の生態学的なあり方から最も遠いものだ。何でもチャレンジするのはいいことだ。それは人間らしい。しかし、その人間らしさは人間以外の生物の減少ということに強くつながっている。

人間が無理なチャレンジをやめる、ということができなければ、多様性は守られない。それはほぼ自明のことのように思われる。
 

2010年10月1日金曜日

原爆ドームに行く

 
先週より、高知、長崎、間をおいて広島の旅である。

長崎、広島、これは何かの縁かもしれない。原爆ドームへ行ってみた。高校の修学旅行、プライマリ・ケア学会、医師会の講演会、これが4度目くらいだろうか。

原爆ドームの周囲で、たまたまボランティアの人の説明を聞く。胎内被曝したその当人が説明してくれる。1時間ほどの間、とにかくしゃべり続けている。

いかり、うらみ、それが原動力のように思える。

自分も昨晩1時間半ほどハイテンションで研修医に向けてしゃべり続けて、聞き手はやはり同じように感じただろうか。これはいかり、うらみではないかと。

自分に照らし合わせてみているだけか。いかりとかうらみとか、ばかばかしい気がする。
忘れることの方がずっと重要ではないか。

戦争を忘れない、というようなことが実は次の戦争につながっている。歴史を勉強すればするほど、他国への恨みが増す、というのはある面当然の反応のようにも思える。歴史を全く勉強しなければ、戦争というものに気がつかないということがあるかもしれない。

戦争のことをすっかり忘れてしまったものだけが、戦争を起こさない、そんなわけないか。

それにつけても国というのは不思議なものだ。しかし、不思議なのは国だけじゃない。都道府県も、市町村も、地域というのも、組織というのも、家族というのも、夫婦というのも、全部不思議。その間で起こるのはどれも戦争だ。
夫婦喧嘩が無くならないように、戦争もなくならない。そういう意味では、戦争をなくすというような無謀な方向ではなく、戦争の約束をこれまでの戦争と違うものとして決めるというのは一つの方法としてあるかもしれない。たとえば戦争ゲームで決着するとか。

でも、実際の戦争だってゲームのようなものだと言えないことはない。それならいっそのこと本当にバーチャルなゲームにしてしまう、なんて出来るわけないか。
 

2010年9月28日火曜日

森鴎外を読む

 
今までまともに読んだことがなかったのだけど、読んでみて、いろいろ驚くことばかりだ。

なんで今頃になって森鴎外を読んだか。よくわからんが、高校の教科書に載っていた「寒山拾得」の最後に、「パパも本当は文殊なのだけれども、誰も拝みに来ないのだよ」というような記述がなぜか延々印象に残っていて、そんなことがちょっと関係しているのか。あるいはアメリカ帰りの医師たちの発言に、時代はまだ漱石、鴎外の時代と何も変わっていないじゃないか、というような気分になったこともあるかもしれない。

読みたいと思って初めて理解できることが出てきた。

鴎外を読め!
ただ読みたい人は、というわけで、無理やり読んだところでくたびれるだけかもしれない。

読みたい人とは誰か。読んでもいない本が読みたい、不思議なことだが、そういうことが重要なのだ。
 

高瀬舟の意外な記述

 
高瀬舟を読んだら意外な記述に行き当たった。

<従来の道徳は苦しませて置けと命じている。しかし医学社会にはこれを非とする論がある。すなわち死に瀕して苦しむものがあったら、楽に死なせて、その苦を救って遣るが好いと云うのである。>

安楽死は医学の対立軸から出てきたわけではなく、医学そのものに起源をもつのだ。

しかしよくよく考えてみれば苦しみから救うというのは、昔から一貫した医学の目的だ。何も変わってはいない。だとすると変わったのは何か。

<従来の道徳は苦しませるなと命じている。しかし医学社会にはこれを非とする論がある。すなわち死に瀕して長生きの可能性があるなら、その可能性に賭け、なるべく延命をするのがよいというのである。>

生命の尊厳、とかいうのであるが、尊厳というような言葉で、むしろ延命を選んでしまう。
生きてさえいれば、それが一番である。それはそれでまた大事な考え方だが。

もうひとつ意外なこと。高瀬舟の前半は、喜助の明るい未来というような内容が書かれている。
高瀬舟の喜助が、明るい未来を感じながら、島流しの刑に向かう。

高瀬舟という小説は、「足るを知る」ということが一番大きなメッセージなのかもしれない。死んだ弟だって、何か満足があったのではないだろうか。

満足することのない、私たち。
 

2010年9月25日土曜日

なぜうつ病の人が増えたのか

 
幻冬舎ルネッサンス新書、産業領域のメンタルヘルスを専門とする精神科医が書いた本。

臨床医の仕事というのはこういう視点でやらなければいけない、そういうお手本のような本だ。

実証的であり、論理的であり、経験的であり、処方的であり、私の書くもののように、実証的論理的であろうとして、結局酔ったようなわけのわからん文章にしてしまうようなところがない。

この本を読め!
 

興津弥五右衛門の遺書

 
森鴎外の短編の続き。切腹する武士の遺書なのだが、文語で書かれている。現代語で書くとどういうことになるのだろうか。

<わたしは、以前から希望していたように、明日、首尾よく、切腹することになりました。>
なんて書きだしになるのだろうか。

そういうことが普通の生き方としてある、という風に読めばいいのか、どうか。特別な事件としてというより、世の決まりに基づいて、つつがなく生きる、生き方として切腹がある。

新潮文庫のこの短編集には、「山椒大夫」、「最後の一句」にも、世の定めや、運命を受け入れて、死んで行く人たちが描かれているが、「興津弥五右衛門の遺書」に照らして読めば、こうした生き方があたかもすすめられているようにも思える。

殉教とか、殉死、と言えばそういうことなのだろうが、そうしたことをさらに一般化して言えば、何らかの「きまり」に従って生きる、死ぬ、ということだ。

興津弥五右衛門は武士道の「きまり」に従い、安寿は男子が家を継ぐというような「きまり」に従ったのだろうか。「最後の一句」の子供たちも同じだろうか。

そう考えたときに、自分はいったいどんな「きまり」に基づいて生きているのか。はっきりわかるのは、自分が基づいている「きまり」の中に、どう死ぬかということはどうも含まれていない気がする。死なないようにするための「きまり」だけで生きている。医療の「きまり」はまさにその最たるものだ。

「なるべく死なないように生きる上でのきまり」、これが現代の「きまり」の特徴だ。
 

2010年9月21日火曜日

目標

 
三浦雄一郎のCM。何のCMだっけ?
<怖いのは老いではない。目標を見失うことだ。>

柔道の谷本選手が記者会見で
<目標を見失ったこの2年間はとてもつらかった>

私なんか全く逆に思う。目標を見失って、初めて見えた。
<怖いのは目標に固執することだ。自分を探すな、副腎に求めよ>

人間にとって科学とは何か

 
村上陽一郎の新刊。
全体をとらえる、という意味でとても参考になる。ただ、全体をとらえる方法というより、合意を得るという方向に軸足があって、自分自身とは少し方向性が違う。

そんな中での印象的なフレーズ。

<クローン羊ドリー誕生の報道があった時に、あるアメリカの産婦人科医に電話がかかってきて、「わたしたちの愛の結晶の子供をあの方法で持つことができるまで、あと何年待てばいいのでしょうか」と質問されたそうです。>

<クローン技術が可能性を開いたことによって。それまで存在していなかった欲望が顕在化する、この果てしなさに辟易します。今私たちは、科学技術と欲望の両輪がお互いに激しく刺激し合って果てしなく続いていくという事態にさしかかっています。どこで止めるのか、止めるものがあるとすれば何なのかというのは確かに問題です。>

臨床倫理の問題に、人間の欲望の問題を考慮するというのは、とても重要だ。MRIをとってくれという患者にどう対応するかというのも、患者の希望というような言い方でなく、欲望の問題として整理すると、別の面が見えてくるかもしれない。

以前これを絶望と呼んだが、希望、欲望、絶望、という並びは、かなりこの問題を明らかにする。
 
 

2010年9月19日日曜日

師に逢って、主に逢わない

 
森鴎外の「妄想」を読んだ。私と同じ49歳の時のものらしい。

<昔世にもてはやされていた人、今世にもてはやされている人は、どんなことを言っているのかと、譬えば道を行く人の顔を辻に立って冷淡に見るように見たのである。
 冷淡には見ていたが自分は辻に立っていて、度々帽を脱いだ。昔の人にも今の人にも、敬意を評すべき人が大勢あったのである。>

<それはとにかく、辻に立つ人は多くの師に逢って、一人の主にも逢わなかった。そしてどんな巧みに組み立てた形而上学でも、一篇の抒情詩に等しいものだと云うことを知った。>

<幾多の歳月を閲しても、科学はなかなか破産しない。凡ての人為のものの無常の中で、もっとも大きい未来を有しているものの一つは、やはり科学であろう。>

「師に逢って、主を持たなかった」、確かに、そう思う。多分これからも主には逢わないだろう。また、これからも多くの師に逢えるといい。ただ、科学に対する期待はうすれ、むしろ抒情詩に期待をしている私であるが。
  
今いる団体は、主ばかりで、師がいない、ということだったと整理できるような気がする。逆に、15年前の後期研修医時代は、主がおらず、みんな師だった。

主がおらず、師がいる、そんな場所を提供できれば、いいなあ。そして、私自身も、師として、弟子として、何かの役割を果たすことができれば、それ以外のことは、さして問題ではないような気もする。
  

話は通じていない

 
日々の診療で、多くの薬を処方する。しかし、薬の効果について説明することはなかなか難しい。

「これは効くような効かないような薬です」

それで話が通じるわけはないのだけれど、通じるためにはそうした部分を乗り越える必要がある。

「治療をする」、ということは、「生きる」ということの縮図である、そういえば当たり前のことだが、現実は、「生きること」より、「治療する」ことの方が大きなことになってしまいかねない。

「生きる」ということが「治療する」ということと同様に、長生きすること、健康でいること、という一方向で考えられる。「治療をする」ということが、「生きる」ということを決めているように見える。それをもう一度反転する必要がある。

「治療をする」ということは、「生きる」ということの一部にすぎない。「治療する」ということが、「生きる」ということより大きくなってしまうようなバカげたことは、早く何とかしないといけない。

そうなったときにはじめて話が通じる。でもそれは医者嫌いの人と話したりすれば、簡単に話が通じたりするのだけれど。
 

話が通じることの不思議さ

 
毎日、診察室を筆頭として、いろんな場所で、誰かと話すのが仕事なんだけど、話が通じるというのはつくづく不思議なことだと思う。

胸はどんなふうに痛いのですか、なんて聞いて、いろいろ患者さんが説明してくれるのだけど、ほとんどわけがわからない。患者さんによっては、どう表現していいかわからないのだけどと、正直に言う人もいる。

大学時代、同級生と話した、ほんのちょっとした出来事。
当時付き合っていた彼女の話題か。恐らくそんな話題なのだろうが、詳細は思い出せない。ただその後のことはよく覚えている。

「さびしいだけなのか、好きなのか、よくわからんのだ」という私。
「おれもちょうど同じようなことを思っていたんだ。その一言はおれの琴線にも触れる、おれもなんとなく思っていたことと同じような気がするんだけど、もう少し何か説明してくれないか」と言う友。

そう言われて、それ以上の説明が全くできない私。しばらくの沈黙の後、何事もなかったかのように別の話題に。ただそれだけのことなのだが、これは話が通じたというのか通じなかったというべきなのか。
今となれば、そんなのはさびしいだけだ、相手はそう明確に答えるかもしれない。しかし、そういう風に答えてしまえば、話は通じないというか、記憶にとどまることもなく通り過ぎるだけの会話になるしかない。こんなことに引っかかって、もっと説明してくれ、もっとわかりたい、というのは、話が通じている証拠だ、むしろそう思う。

誤解の幅こそがコミュニケーションの源泉だ。

30年を経て、こういうのを話が通じたというのだと思う。
「わからないけどわかる」、そうと言うしか仕方がない。ばっちりわかるというのは多くの場合勘違いだ。なんとなくわかる、少しはわかる、その方が全然信頼できる。

日々の外来が、なんとなくわかる、ということで済むような、そんな風にやれたらいいのに。
 

鬱という字の2面性

 
鬱という字は、リンカーン大統領はアメリカンコーヒーを3杯飲むと覚える。なるほど。
それはいいとして、鬱には、一般的な鬱とは逆の意味、「鬱蒼:うっそう」の時の鬱のように、豊かに生い茂るさまという意味があるらしい。

ひとつの文字が逆の意味を同時に持つというのは、なんとなくわかる。

最もわかりやすい例でいえば、「ある」という言葉は、「ある」という意味と「ない」という意味が同時にある。わかりにくいか。
おおそうだ。「わかりやすい」という言葉にも、「わかりやすい」という意味と「わかりにくい」という意味が同時にある。

ますますわからない。
でもますますわかるといってもいいくらいだ。

「無心」なんてことも似たようなことのような気がする。

「いはんや悪人をや」なんてのも。

「生きる」というのも、「死ぬ」というのも。

誰かが「死にたい」なんて言うときは、「生きたい」と言ったって同じだ。
 

2010年9月14日火曜日

カズイスチカ

  
また抜き書き。森鴎外「カズイスチカ」
医者の父に対して、父が一瞥で患者の予後を言い当てるようなことは自分では到底できないという。しかし違いはそれだけではない。

<翁の及ぶべからざる処が別に有ったのである。
 翁は病人を見ている間は、全幅の精神を持って病人を見ている。そしてその病人が軽かろうが重かろうが、鼻風だろうが必死の病だろうが、同じ態度でこれに接している。盆栽を玩んでいる時もいる時もその通りである。
 花房学士は何かしたい事もしくはする筈のことがあって、それをせずに姑らく病人を見ているという心持である。それだから、同じ病人を見ても、平凡な病人だとつまらなく思う。Intressantの病症でなくては飽き足らなく思う。また偶々所謂興味ある病症を見ても、それを研究して書いて置いて、業績として公にしようとも思わなかった。勿論発見も発明も出来るならしようとは思うが、それを生活の目的だとは思わない。始終何か更にしたい事、する筈の事があるように思っている。しかしそのしたい事、する筈の事はなんだかわからない。>

父である翁は、したい事、する筈の事を持っていないし、息子は持っている。持っていないことが重要だ。心当たりはたくさんある。

夢なんか持つな。そんなな風に言っても決して伝わらないことが、こうしたことで父から息子へ受け継がれる。
だから、自分も息子に、「夢を持つな」なんてわけのわからないことは言わないようにして、とりあえず「夢を持て」、というのだが、息子は、そんなもの持てるわけないだろ、という感じで何の返事もない。しかし、来春からは就職である。やりたいとか、やりたくないとか、そんなことにかかわらず、結構立派に働くのかもしれない。いまどきの若者侮りがたしである。

今死んじゃってもいいんだけどね

 
世界で一番長生きな人たちが、今日も健康に関する不安でいっぱいになって病院を訪れる。
そんな患者さんについての話をしている中で、こういう不安を理解するのは難しい、30も40歳も若い自分だって、今だってもう死んでもいいと思ってるんだけどね、そんな風に言うと、たいがいみんな、そんなこと言って、誰もそんな悟りの境地なんかに立てませんよ、と会話が途切れる。しかし、途切れた会話を無理やりつなげる。

別に悟ってなんかいないんだ。それなりに合理的、打算的に考えた結果なんだけど。
別に今死んじゃってもいいんだけどね、なんていうと、またそんなこと言ってなんて、今のように相手にされない。確かにそうだ。
しかし、だ、逆に、自分こそは生きるべき人間だ、なんていうのを聞いたらどう思うか?
それもまた頭がおかしいと思うだろう。が、そう聞いた後で、今死んじゃってもいいんだけどね、と聞きけば、今度は死んじゃってもいいというのが少しは理解される。

高齢化社会では、今死んじゃってもいいんだけどねという人の方が、一般に若い人の人気が高い、はずだ、と思うのだけど、本当のところどうかわからない。若い人は遠慮して、そうはっきりとは答えないだろうから。

こうまで若者に嫌われたい老人が増えたのはなぜか、病院で働いていると、そういう気がするのだが、それは病院という場所による選択バイアスか。

わたしは若者に嫌われないためといって、今死んじゃってもいいんだけどね、なんて、50歳にもならないうちから人気とりをしているのだが、それは日々を楽しく暮らすためには、かなりいけてる方法のような気がする。

今から寝るんだけど、朝目覚めるかどうかなんて、本当はわかったことじゃない。どうしようもないことを心配するよりは、目覚めない朝を想像しながら眠るなんてのは、どうだろう。確率的にいえば、また目覚める可能性が圧倒的に高いわけだけど、そういう可能性の高い方ばかりに賭けているから、全然人生がおもしろくならない、そんな風に思うのだけど。

というわけで、目覚めない朝を想像しながら、寝ることにする。
 

2010年9月11日土曜日

コレステロールは敵か味方か

 
コレステロールなんてものはない。コレステロールという名があるばかりだ。
コレステロールというものがある。そう名づけられたものとは違う何かが。

コレステロールは、人間の体にとって、道に転がる石のようなものだ。
石は敵か味方か。
コレステロールだって同じ。

ただそこにある石というのにも何かしら起源がある。歴史がある。時間が流れている。

山から下って、川から海へ、そしてまたあの山へ。
「小石のように」、ボブディランでなく、中島みゆきの方。

コレステロールも、食った肉から門脈、肝臓、そして静脈、動脈、ステロイドホルモンなんかにもなるかもしれない、動脈硬化を作るかもしれない。まさに小石のように、コレステロールにも歴史がある。時が流れている。

コレステロールというのはもうやめにしたい。この私の血液を流れる、ストーンと呼ぼう。たくさんのストーンのうちの一つ。コレストーン。

転がれ、私のコレストーン。小石のように。ある時は敵に、ある時は味方になって。
でも本当は、コレストーンは、敵でも味方でもなくて、ただ石のようなものだ。

コレストーンが、敵でもなく味方でもないことは、エビデンスがそれを見事に証明している。
しかし、なぜかコレステロールと名付けられたものには、敵だという情報しか流れなかった。ようやく今頃になって、味方説が流れだす。
そうなるとまたこっちには違和感があって、敵説と味方説の起源が同じところにあることを思い知る。

いや、コレステロールは敵でもないし、味方でもない、名前を変えた方がいい、コレストーンと。敵か味方かという考え方をやめない限り、この混乱は収拾しないだろう。
 

2010年9月10日金曜日

怖いのは菌か抗菌薬か

 
今回の院内感染、耐性菌事件は今の世の中の象徴的な部分の反映か。

そういうタイミングで、テレビの除菌薬のコマーシャル。
カーペットにシュッ、ベッドにシュッ、衣服にシュッと、あれである。

菌=悪、除菌薬=善、という構図であるが、そんなことはわかったもんじゃない。
普段仲良くしていたのは菌の方で、新たに現れた除菌薬こそ敵かもしれない。
院内感染も似たような問題である。菌=敵という行き過ぎた結果ではないか。

と考えてきてどうにもつまらない。

そういう思考は、なんだか身に付いた気がする。ただそれも一つの思考なのだ。
正、反、合、なんてのはいつまでたっても堂々めぐりするしかないやり方だと思う。
菌は敵でも味方でもないし、除菌薬も敵でも味方でもない。こういう考え方ができて、何か止揚できている気はしない。上に揚った感じはない。

脱構築なんていうのだが、それも少し違う。そこにも何か思考方法のステップアップなんていう段階がある気がする。

そうなると、やはり「無」なんてのにひかれてしまう。

院内感染の事件をのぞくと、奈落の底が見えるかもしれない。しかしそこは奈落ではなく、単にとなりだったりする。価値から自由である「無」。

「最後の親鸞」に、「横に超える」というようなことが書かれていた気がする。
院内感染を横に超える。そういうことができた先には、「何もない」が待っているかもしれない。

怖いのは、菌でなく、除菌薬でなく、一体何か。
名づけることか。姿をとらえることか。価値を見出すことか。
 

2010年9月9日木曜日

勝手にどうにかなる

 
世の中というのは基本的にはめちゃくちゃで、あらゆることが起きる。
その代わりと言っては何だが、結局は何とかなる。
そういう世の中の基本的な仕組みについて、もう一度深く知る必要がある。

すべてがうまくいくという世の中はない。
どうにもならない世の中というのもない。

うまくいくというのも、よくよく考えるとうまくいっているのかうまくいってないのかよくわからないところもある。

ペニシリンの発見、ということがなければ、耐性菌もない。
何だ、院内感染の話か。そうでもないんだけど。

ペニシリンで肺炎が治った、というのも治らないということとセットでしかあり得ない。治るということと治らないということは一つのことだ。

思い出すのは、どうしてかよくわからないけど、みにくいあひるの子の定理。
あらゆる二物は似ているというやつだ。これは数学的に証明されているというが、情緒的にも証明されている。

人間と小石は似ている。人間も小石もひとつのことだ。区別はない。
時が流れてしまえば。時は必ず流れるから、区別はない。

世の中というものに姿はないのだと思う。
時が流れているということ。

耐性菌が出るまでになった世の中は、それはそれで評価できるところもある。
みんな細菌と戦って頑張った結果だ。
でも戦わないという選択肢だってあるんだ。
それもまたそれで評価できるところがある。
全部評価できる、ということだ。ただ評価できるというと、やはりそのうち全部ということが無くなる。評価できることとできないことに分けられていく。

とりとめもなくいろいろ起こるのだが、本当は何も起こらないといってもいい。
とりとめがないというと、何か整理したい気持ちが出てくる。そこが落とし穴だ。
とりとめがないというところで止めることは難しい。
いっそのこと何もないというところまでいければ。あるいはすべてあるというところまでいければ。
ただすべてがあるというのは、誤解しやすい。
可能なことがどんどん増えている、そのうち全部が可能になると思うかもしれないが、そうではない。そういう意味では、相変わらず何もない。それを全部あると呼べるかどうか。

 

2010年9月7日火曜日

院内感染とエコ

 
院内感染の問題が連日新聞に載る。
こういう問題こそエコロジカルに取り上げてほしい。

オランダの中耳炎ガイドラインは、中耳炎の患者に発症から3日以内の抗菌薬投与を原則投与しないという方針によって、耐性菌を激減させた。もちろんそれによって中耳炎による難聴などの重篤な合併症が若干は増えているかもしれないが。要するにこの問題は、あっちがたてばこっちが立たずというエコロジカルな問題なのだ。

こういうことをエコロジカルに論じるような、ジャーナリストがいるといいのだけれど。

かぜには抗菌薬を出さない、気管支炎では迷う、肺炎には出す、というような基本すら全くないがしろにされている現状で、大学病院の院内感染の問題だけ取り上げても、何の解決にもならない。

エコ、エコとやかましいが、エコロジカルな思考というのは忘れ去られるばかりだ。
 

確実なボケ防止

 
テレビでボケの研究者がボケ防止を披露している。
大体適当なことを言っていると思う。

多くの人が運動がいいなんて言っているが、運動なんかして長生きしたらボケる確率が高くなるに決まっているじゃないか。

確実なボケ防止方法はある。そんなの簡単。
ボケてないうちに自殺する。
これは確実なボケ防止だ。

あるいはこんな風にいう人もある。
「先にボケたもん勝ちだよ」
あとにボケるほど、他人のボケと格闘しなければいけない危険が増す。
先にボケるのがボケと戦うことを予防する。
ボケで大変なのは本人だけじゃなく、周囲の人だったりする。どちらが長く大変かといえば、周囲の人に決まっている。

そういうことを考えない中でのボケ防止法なんてのは、全く絵に描いた餅だ。

怖いのはボケることでなく、ボケることを怖がる自分だ。
 

情報は操作されている

 
あらためて書く程のことでもないが「情報は操作されている」

低コレステロールと死亡なんてことが話題になっているが、コレステロールの薬でもうメーカーは散々儲けて、どうせジェネリックに切り替えられるだけだし、コレステロールの薬で広告料を取るころもなくなって、マスコミの方もそろそろ取り上げてもいいころだというところか。

真相がそうだとは思わないけど、そういう社会に生きているということは確かだ。

もう15年も前から、女性の高コレステロール患者に、言ってきたのは次のようなことだ。

「日本人の女性は世界で一番長生きじゃないですか。その日本の女性が一番高い割合で高コレステロールだなんて言われているんですよ」
「生き死にでいえばコレステロールがちょっと高めの方が長生きなんです。実際男性より女性の方がコレステロールの平均の方が高くて、心筋梗塞は女性に少ないんですよ」
「あなたのようなコレステロールが高い女性が100人いたとしましょう。5年以内に心筋梗塞になるのはせいぜい2-3%なんですよ」

あまり誰も信じてくれないし、一番反対するのがコレステロールの専門医だったりする。
いまだに信じてもらえない。
大体信じるようなことではなく、研究の事実を述べているだけなんだけど、これを信じているなんて自分でも間違ったりする。これはそうとう根深い問題だ。

<「治療をためらうあなたは案外正しい」は案外正しい>とコメントしてくれた某大学の某教授は案外正しい。
 

2010年9月5日日曜日

ワークショップで僕は君に話しかけたかった

 
後期研修医向けのワークショップ。
話したいことは山ほどある。

かぶっていた野球帽をなくして(そのあとすぐに出てきたのだけど)、思い出した話。
野球選手の帽子に成りたいというネフローゼの少年。
小学生に上がるか上がらないかくらいの年齢で、自分が死んだ後のことを考えていたのであろう少年のこと。医者に成りたい、先生に成りたいではなく、帽子に成りたい、自分が死ぬのではないかという恐怖と常に向き合っていた少年のこと。

臨床研究のワークショップであったが、本当はそういうところまで行きたいのである。
何のための研究か?そういう少年のための研究である。

ほんとはそんな話もしない方がいいのだ。ただ話しかけたいということだけで十分。
話さないことで伝わる。そういうことに賭けられるくらい、自分自身も少しは成長したと思う。
というわけでその話は早々に切り上げて、臨床研究のワークショップに移る。

こっちはもう2冊の本にしたし、もう出来上がったことを扱うのみ。
ただ大事なのは話しかけたいということで話す内容ではないのだ。

これでいいのだ。
 

2010年8月31日火曜日

カンブリア宮殿

 
孫正義出演のカンブリア宮殿。

夢を持った者だけが夢を実現できる。
そしてその夢の実現を心底望むか否か、それだけが夢を実現する人としない人の違いだと。

そりゃそうだ。
でも今必要なのは、夢を実現したいというポジティブさではなく、むしろ夢がなくても生きられるというネガティブさではないか。

夢はあってもなくてもいいと思う。自分自身はこれまで夢に向かって生きてきたということはない。
強い思いで夢を持てる人というのは、あまり誰かの助けを必要としない。だから、夢を持てというのは誰に向けたメッセージなのかよくわからない。夢を持つものはそんなことを言われなくても夢を持つだろう。

何かを求めているのは、夢を持てない人のほうだ。夢を持てない人はいつも何かを求めている。
その夢を持てない人に、何でもいい、夢を持てという。しかし、その何でもというのの一例が、「世界一のパンケーキ職人になるというのでもいい」というのだ。世界一というのは何でもいいということとは違うような気がする。夢が持てないという人が必要としているメッセージは、夢を持てということではない。それは私の経験が私に明確に教えてくれたことだ。

だから私はむしろこう言いたいのだ。夢が持てない人に向けて、夢なんかいらないのだ、と。
自分の心当たりはこんなこと。

生きたいと思う以外に、何の生きる理由が必要か。
言ったのは寺山修司だっただろうか。記憶は定かでないが。


 

2010年8月26日木曜日

バランス

 
今日は久しぶりに早く帰宅。こういうバランスが大事なのだ、といって、なんだかすっきりしない。

ワークライフバランスなんて言うけど、バランスをとるということがどういうことなのかよく考えないといけない。

読みかけで放ってあった鈴木大拙の「一禅者の思索」を何年かぶりに手に取ったのだけど、驚くべきことが書かれている。

<命というものは、両方の攻め合うものが、ちょうど攻め合って平均を取ると意味ではないが、-平均を取ったらもうそこに動きがつかなくなって死んで行くという事になるので、到底それでは生きるというような事はなかろうと思う。>

バランスが取れているところでは死んでいるということだ。生きるというのはバランスを欠いているということだ。動的平衡とはそういうことではないか。鈴木大拙が福岡伸一につながる。

ワークライフバランスを動的平衡という中でとらえなおすこと、生きるということ。仕事のことを家に帰ってからも引きずり、寝る前にもぐずぐず考え、夢にまで見て、また朝を迎える。それでこそ生きている。
 

2010年8月23日月曜日

手ごたえ

 
手ごたえあり。
研修医の成長は目覚ましい。
自分自身と同世代の者とは全く違う視点でものを見ている。もちろん今までの見方も知った上で。

変幻自在とはいかないけど、ひとまずは変幻不自由くらいはいけてる。

治療を拒否する患者に、一筆書かせて、あとはご自由にというような医療が、どんな基盤で起こっていることなのか、かなり見えている。

患者の治療拒否を受け入れられない。治療を拒否させないことが倫理的である。
そんな考えが基盤にあるうちは、こうした患者とうまく関係を結べない。そこを、治療拒否に対し、そういうやり方も考慮しながら相談しましょう、なんてアプローチができている。
これは驚くべきことだし、確かな手ごたえでもある。
 

2010年8月21日土曜日

まつりばやし

何年かぶりに、中島みゆきのアルバムを聴く
「ありがとう」

妻がカラオケで「ホームにて」を歌ってきたという

乗り遅れた私
走り出せば間に合うのに
でも間に合ってはいけないのだ

今日たまたま湯島あたりで聞いたまつりばやし
夏祭りの時期なんだ

ちょうど去年の今ごろ二人で 二階の
窓にもたれてまつりばやしをみていたね

けれど行列は通り過ぎて行ったところで
後ろ姿しか見えなくて残念だった

後ろ姿しか見えない
通り過ぎて行った自分自身

繰り返し繰り返し現れるイメージ
遠ざかる船のデッキに立つ自分
これは違うアルバムか

乗り遅れ、通り過ぎ、遠ざかる

自分自身にさよならし続ける人生
さよならだけが人生だ
これは寺山修司

古い自分よさようなら
新しい自分よこんにちは

相変わらずそういう陳腐なことしか書けないのは
実は古い自分とさよならできないから

時は流れて

流れの中で今はただ祈るしかない

そういえば、ダウンタウンに時は流れて

流れているのか回っているのか

小石のように
またあの山へ

観念奔逸でスピンアウト

2010年8月19日木曜日

死を体験する

 
死を体験するということはどういうことか。

死ぬのはいつも他人ばかり。
死を体験するとは、他人の死を体験するということ。
他人の死を最も体験するのは医師だろう。
体験することが重要なら、少なくとも医師は多くの死を体験した分、一般に人よりはるかに死について、理解しているにちがいない。

しかし現実はどうか。

体験だけではどうにもならないという証明のようなものだ。
 

2010年8月18日水曜日

おじいちゃんからの手紙

いつまでも長生きしてねという孫からの手紙に、おじいちゃんが返事を書く。

今日の手紙は孫のお前には少し難しいかもしれない。
お父さんといっしょに読んでください。

いつまでも長生きしたいのはやまやまだが、なかなかそういうわけにもいかないのだ。
そう思うのはただの自分勝手かもしれない。お前の手紙にかこつけて、自分勝手に生きることは決してよいことじゃない。
ちょっと考えてみればそんなことはすぐわかることだ。
たとえば、お前自身やお前の父さんより、じいちゃんのほうが長生きしたらどうなる。

だから今日の手紙はちょっと変なことを書かなければいけない。
じいちゃんはいつまでも長生きするわけじゃない。できる限りお前より先に死ぬように努力しなければいけない。そして、お前や父さんより先に死んだときに、喜んでもらえるようにしなければいけない。そのためには、それほど長生きせずに、適当なところで死ななければいけないと思っているんだ。

2010年8月17日火曜日

92歳の老人が

  
92歳の老人が、前立腺がんの検診について相談したところ、やらなくていいのではといわれ、年寄りだと思って相手になってくれなかったと怒る。

やりましょうなんて医者は、検査すればもうかるし、なんてことしか考えていないかも知れない。

逆にやらないほうがというほうがとてもいい医者かもしれない。

こんな患者を作った世の中こそ問題だ。
これもまた「末人」の一人かもしれない

よりよく生きる、健康で価値のある人生を送ろうという努力が、思いもよならない結末を迎える。
いつまでたっても病気になる恐怖から逃れられない。死に向き合うことができない。かえって不幸せな長すぎる人生。

幸せすぎる現世と、あるかどうかわからない天国。
釣り合うわけがない。バランスを欠いた人生だ。そんなことして、子供より長生きしてもいいのか。
しかしそんなこと言うと、いつまでも長生きしてねという孫に怒られる。子供はもういい加減に先に逝ってくれないかと思っていたりするが、そんな風に思うのは不謹慎なこととされる。

厳しすぎる現世と、頼りない天国なら、頼りない天国を選んで自ら死んでしまうというのも理解ができる。まだそのほうがバランスがとれた人生かもしれない。だから自殺すると天国へは行けないなんて現世で言われたりする。それはみんなが死なないための方便か。

お金についての番組からマックス・ヴェーバー

 
世の中がみんな石川啄木だったとしたら、資本主義は衰退するだろう。
資本主義の支えたのは借りたらきちんと返すような人である。そこに起源がある。

だから今の世の中から抜け出るためには、むしろみな石川啄木に成るべきではないだろうか。
借りたら返さない人がメジャーな世界。よくなるかどうかは分からないが、その先にあるのは今とは違うひょっとしたらいい世界かもしれないと、思わないこともないではないか。

世俗内禁欲が資本主義の起源となったように、むやみやたらな放蕩が、禁欲的な生活の起源になるかもしれない。

よく生きたい、健康でに暮らしたい、病気で人に迷惑かけたくない、そういう思いが、いつの間にか医療を崩壊させる。当初の基盤は、何か違う精神であったはずだ。しかし、その精神だけがすたれ、長生きしたいという欲望だけが生き残る。禁欲と資本主義の関係に似ていなくもない。

意図しない世の中の変化、歴史が示すのもそういうことではないか。

読むべきは、なんとかという詩人ではなく、石川啄木の方ではないだろうか。

「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は、医療者にとっても必須の本だと思う。禁欲と資本主義のつながりの逆説、よく生きたい気持ちと医療崩壊のつながり、よくよく考えてみる必要がある。

その最後のフレーズは痛烈だ。

<「末人たち」にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。
「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう」と。->

医療の末人の一人として、この言葉を自分自身の到達点として考えねば。
なんという結末を迎えているのだ、と今の状況を素直に受け入れることから始めるほかないのではないか。
 
 

2010年8月16日月曜日

お金を哲学する

 
NHKの番組に高橋源一郎が出ていた。

石川啄木は借金王だった。

バブルを通り過ぎて、今の人の方が、お金がないならないなりに生きていくすべを身につけている。

なんとかという詩人の詩が引用されていたが思いだせない。

マックス・ヴェーバーいうところの伝統主義まで戻れということか。
キリスト教が普及しない中で、日本の戦後の資本主義をヴェーバーはどう読み解くのだろうか。

禁欲というのは日本にぴったりくる言葉のような気もする。

ただ、そんな簡単なことではないな。
 

2010年8月14日土曜日

最後の親鸞2

 
≪もし、自力と「知」によって他者を愛しみ、他者の困難や飢餓をたすけ、他者の悲嘆を一緒に悲しもうとかんがえるかぎり、それは現世的な制約のために中途半端におわるほかない。たれも、完全に成遂することはできないからだ。これは諦めとして語られているのではなく、実践的な帰結として云われている。そうだとすれば、この制約を超える救済の道は、現世的な<はからい>とおさらばして浄土を選び、仏に成って、ひとたびは現世的な制約の<彼岸>へ超出して、そこから逆に<此岸>へ還って自在に人々をたすけ益するよりほか道がない。そのためには念仏をとなえ、いそぎ成仏して、現世的なものの<彼岸>へ行くことを考えるべきである。それこそが、最後まで衆生の慈悲をつらぬき通す透徹した道であるとー。≫

と抜き書きだけにしようと思ったが、自分なりに少し整理ができた。

どこまでも現世的なはからいを期待できる、あるいは浄土なんかなくたって大丈夫というのは、すでに救われている。善人なおもて往生す、ということか。

現世での解決が不可能となっても、生きることが苦痛でしかないところへ追いつめられても、浄土を求めずに生きることが可能かどうか。

人為に頼るか、自然にまかせるか。苦しみしかないような現世で、なおかつ自然にまかせるといえるかどうか。煩悩も自然の一つで、浄土もいらないといえるかどうか。念仏も不要といえるかどうか。

そこで、念仏を唱えるかどうかも、「面々の御計なり」という親鸞。

絶対他力。

念仏を唱えればいいのだという中には、どうやっても「自力」が混入する。

絶対他力の中で、念仏を唱えるとはどういうことか。

親鸞の≪吐息のように付け加えられている言葉≫に耳をかたむけるしかない。

親鸞は、<信心>を≪時間的連鎖≫としてとらえているという。

結局整理はできない。

因果モデルから構造モデルへ。

将棋のルールから羽生のルールへ、ここでも同じ問題が取り扱われていると思う。
 

2010年8月12日木曜日

将棋のルールと羽生のルール

 
将棋のルールとは、駒の並べ方や、それぞれのコマの動き、どうなったら勝負がついたとなるのか、というようなことで、とりあえずそのルールを理解すれば将棋を楽しむことができる。

それに対して、将棋のルールに基づきながら、別のレベルで、いかに勝負に勝つかというルールがある。羽生のルールとは、羽生名人がこの将棋のルールとは別レベルで基づいているルールである。

医療にも、将棋のルールと羽生のルールがある。
医療における羽生のルールをいかに明示的に記述するか、それが宿題。
 

感情をガイドにして

客観的な見方というのは、いつまでたっても判断につながっていかない。せいぜいわかるのは確率の高低くらい。

確率が高い方ばかりに賭けるのが能じゃない。

どうすればいいのかわからないとき、最後の一線を乗り越えるには、感情をガイドにするしかない。

あえて確率が低い方へと賭けるのは、決して不思議なことじゃない。でもその時に重要なのは、自分の感情に対して、客観的になれるかどうか。でも客観的というのは無理だな。

判断停止、現象学的還元。
感情をガイドにするためのテクニック。

2010年8月6日金曜日

最後の親鸞

 
ただの抜き書き

<わたし>たちが宗教を信じないのは、宗教的なものの中に、相対的な存在にすぎない自分に目をつぶったまま絶対へ跳び越していく自己欺瞞をみてしまうからである。<わたし>は<わたし>が欺瞞に躓くにちがいない瞬間の<痛み>に身をゆだねることを拒否する。すると<わたし>には、あらゆる宗教的なものを拒否することしか残されていない。そこで二つの疑義に直面する。ひとつは、世界をただ相対的なものに見立て、<わたし>はその内側にどこまでもとどまるのかということである。もうひとつは、すべての宗教的なものが持つ二重性、共同的なものと個的なものとの二重性を、<わたし>はどう拒否するのかということである。たしかに、<わたし>は相対的な世界にとどまりたい。その世界は、自由ではないかもしれないが、観念の恣意性だけは保証してくれる。飢えるかもしれないし、困窮するかもしれない。だが、それとても日常の時間が流れていくにつれて、さほどの<痛み>もなく流れていゆく世界である。けれど相対的な世界にとどまりたいという願望は、<わたし>の意志のとどかない遠くの方から事物が殺到してきたときは、為すすべもなく懸崖に追いつめられる。そして、ときとして絶対感情のようなものを求めないではいられなくなる。そのとき、<わたし>は宗教的なものを欲するだろうか。または理念を欲するだろうか。そしてやはり自己欺瞞にさらされるだろうか。たぶん、<わたし>はこれらのすべてを欲し、しかも自己欺瞞にさらされない世界を求めようとするだろう。そんな世界はありうるのか?
 

2010年8月1日日曜日

ダウンタウンに時は流れて

とにかく読め!

スーパーシステムよりスーパーな何かがある。
生きることは、システムでも、スーパーシステムでもない。

思えばこのブログも多田富雄の本の感想から始まったのであった。

今一度、多田富雄の本を読みなおしたい。

地域医療研修センターの終わりと始まり

7年と4カ月、長いようで短い時間。長いという意味と短いという意味を同時に表すような言葉があるといいのだけど。たとえば、「ながかい」というように。

万物は流転するのだ。

色即是空なのだ。

別れと出会いを繰り返すのだ。

これでいいのだ。

踏み出す一歩が、ずぶずぶとめり込む沼地に向けたものであっても。その重みは自分で受け止めるしかないものだ。

生きるとはずぶずぶ徐々にめり込んでいくことだ。もうすぐ50ともなれば。

それでもまた何かが始まるのだ。
組織というようなつながりではなくて、縁というようなつながりの中で、何かが始められれば。

こういうしゃらくさいことを書かなければならないのは、何か整理がついていない証拠だ。
でも整理がつくなんてことはないだろう。

2010年8月、新しい地域医療研修センターが始まる。

2010年1月16日土曜日

飯田線と新幹線こだま号を乗り継いで帰る

新城で講演の後、飯田線と新幹線こだま号を乗り継いで帰る。新城駅には以外と人がいる。少し前に下りの電車があり、大部分はそれに乗る。週末の奥三河への旅行者であろうか。3分後には上りが来るはずだが、急病人発生とかで列車が遅れる。ホームで待っていたのだが、寒いので待合いに戻る。ホームでは、外国人男性と日本人の若いカップルが抱き合っている。寒さを味方に付けた、なかなかの行動だが、多少不愉快な気持ちもある。
10分ほど遅れて豊橋に着く。予定の新幹線にぎりぎり乗れず、豊橋で20分ほど時間ができる。待合いに無線LANが飛んでおりメールのチェックができる。今日中に返事をした方がいいメールが一通あり、それに返事を書く。待合いのテレビは大相撲中継。十両の取り組み。山本山と誰だかの取り組み。誰も見ている様子がない。私もその取り組みの結末は知らない。画面の山本山という文字が記憶に残っているだけだ。ラジオは知ったかぶりの大相撲中継、なんて歌が思い浮かぶ。知ったかぶりの大相撲中継、ってなんだ。大相撲中継は、こちらの気持ちを見透かすかのように、あえてそれにはふれずに淡々と中継しているということか。
そのうちに次のこだま号の時間となりホームへ降りる。出発までにはまだ時間があるが、列車が入ってくる。豊橋でのぞみやひかりに追い抜かれるために何分か停まるのだ。そして出発。
出発しても、こだま号はたびたび停まる。停まるとなかなか出発しない。停まってる時間と走っている時間を正確に計りたくなる。新横浜に着くまでに、合計30分以上停まっているんじゃないだろうか。
しかし別にそれが苦痛なわけじゃない。今はもう三島を過ぎて次は熱海か。掛川あたりから書き始めた新城からの旅行記に追いつかれるくらいだから、確かに遅いという気がするが。そうこう書いている間に熱海に着く。熱海って熱い海だ。海に温泉が湧いていたのだろうか。初めてそんなことを考える。熱海からは結構たくさんの客が乗ってくる。案となく温泉旅行者、仕事という雰囲気ではない人が大部分のように見える。
次は小田原、そうしたらもう新横浜だ。新幹線を追い抜いたので、この辺でやめることにする。

2010年1月15日金曜日

開業

一旦開業すると、もう後戻りはできない。簡単にはやめられない。


一時的な収入減を受け入れなくてはいけない。家は小さくなる。

子供たちは巣立っていくだろう。そして、夫婦だけの生活。
「開業」なんて本を買ってみた。自分の知らないことばかりだ。こういう本は基本読まない。しかし必要とされるのはそういうことだ。

でも結構いいことが書いてある。‘「自分が、自分が」という意識が払拭され、世間の一員としての果たすべき役割に気がついたとき、『開業哲学』はシンプルな言葉で身近なところに存在することとなるでしょう’

私の本に自分で書いたことそのままだ。

病院医療に自分の果たすべき役割はないような気がする。そうだとすれば、クリニックの開業に当たっての『開業哲学』は、これまでの臨床医としての哲学そのものに近い。
そうやっていろいろ理由をこじつけながら進んでいく。しかしそれは自分を自分を正当化していくというに過ぎないかも知れない。

結局「自分が」から逃れられない。

だから、本当は開業哲学なんてどうでもいいのだ。縁あって開業する、そういうのがいい。

閉鎖病棟

ははきぎ蓬生、ははきぎが変換されない。帚木、「ほうき」と入れるとでてくる。ぜんぜん知らない作家だった。私の「治療をためらう」が週刊朝日に医療系の本のベスト3として和田秀樹氏に紹介されていたのだが、その項で、複数の人からベスト3にあげられていた。何となく、おもしろそうな気がして買って読んでみたらみたら、これがすごい。精神病患者の物語、といえばありきたりだが、ものが違う。患者等の開放されっぷりがすごい。閉鎖された世の中に住んでいるのはこっちの方だ。
たとえばこんな場面。
覚醒剤中毒患者の元やくざ。どうしようもない奴として描かれる。通院してくる女子中学生を強姦してしまう。その元やくざを、かつて家族を4人も殺し死刑判決を受けたものの、死刑によって死ねず、生き残ってしまった半身不随患者が殺す。その殺した場面を、その元死刑患者本人が振り返る。
苦しそうだった元やくざが、刺されることで優しい顔になって死んでいく、そんな描写。正確に思い出せない。正確に思い出せれば自分が作家になっている。

なんて開放ぶり。それに比べて、こちらの閉じっぷりもハンパない。こちらこそ、私自身こそ閉鎖病棟にいる。

新年早々

新年早々不愉快なこと続きで、と書き始めて、新年早々に悪いことは起こらないというような前提に立っている自分に気がつく。要するに不愉快なことが続いている、そういう当たり前の状況である。
そこで読んだ一冊の本。組織と人間、沈まぬ太陽の主人公のモデル、小倉寛太郎と佐高信の対談。佐高信の言うこと書くことはどうにも生理的に無理なところがあるが、小倉寛太郎に負けて買ってしまった。

予想通りの内容で、お買い得感なしの本ではあるが、それでも、自分自身のことにつなげていろいろ考えることもあり、読まなければあえて考えたりしない、いやな面のいい面というか、そういうことにどうしてもふれることになる。
理不尽な人事でアフリカに長くいることで学んだこともあり、それは会社に感謝すべきじゃないかという周りからの意見に対して、断固そうではないと述べる。会社には絶対感謝などしない、その強い意志。しかしあの理不尽な状況にとどまり続けてがんばるには、何かないと無理な気がする。やめることで会社の悪い奴らを喜ばせることだけはしたくない、そういう発言もあるが、本当にそれだけの理由で頑張れるものだろうか。
ここまで理不尽な思いをしてもなおかつ前向きに生きる、その背後には何かある。しかしそれについてはいっこうによくわからない。親からの教えというのが載っているのだが、天知る、地知る、我知る、みたいなもので、父から言われたそんな言葉で乗り切れるようには思えない。
生きることに対する何か、生きることは尊いということか。アラゴンの詩のように、人生には苦しんで生きる値打ちがあると。

それだけのことか、しかし、それだけでこのように生きられるものだろうか。
会社に感謝することなどなくても、何かに感謝せざる得ない、そうでないとこんなふうに生きられない。何かに対する感謝、そのことについて、何か明確に述べられていただろうか。あまり心当たりはない。しかし、そういうところを探して読み直す必要があるかも知れない。
不平不満ばかり言っている自分。自分が受けた理不尽さなど、ものの数には入らないようなことばかりだ。それなのに何で不平不満ばかりがでてくるのだ。

感謝すべきものが見つからない。そういうことかも知れないと思う。
感謝すべき人は死んでしまった人ばかりだ。